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イエスとパウロの言葉に垣間見る「自己愛」の真実

ビジネスライクに
現代社会に
大量投入され
一神教的世界でも
多く連呼され
使いふるされた感がある
「愛」という言葉に
多くの人が
うさん臭さや
ニセモノ感を
感じてしまう
その理由は




2000年前に
イエス・キリストから
放たれた
ホンモノの「愛」
様々な有力者の
様々な思惑が
2000年かけて
こびりついた
「愛」
とが
まったくの
別物になってしまったことに
あるのではないかと
思うことが
よくあります




イエスが
伝えたかった「愛」は
2人称に
分断された
「神」と「人間」とのあいだで
神の見返りを
期待しつづける
「愛」ではなく

「神」と
「人間」とを
「絶対不可分」にした

「神」による
不断(永遠)の
汎在神的
「自己愛」

ではなかったのか



今となっては
イエスの真意は
確かめようがなく
聖書に
記された言葉の
どこまでが
イエスの言葉で
どこまでが
後付けされ
脚色されたものなのか
(あるいは
イエスすらもが
フィクションなのか)
もはやそれは
その言葉を読む人
おのおのに
ゆだねられている
わけですが




イエスの真意の
その断片

聖書の言葉の
「不可視な部分」
いまだに
刻まれているからこそ
キリスト教は
曲がりなりにも
いまだに
影響力を持ち
多くの人を
魅了してやまないのだとも
思えてきます




そんな聖書に
ぼくがもっとも
イエスの
透徹された
真意が
受け継がれたと思える
文書に
「コリントの信徒への手紙13章」
というものがあります
(聖書においては
初期キリスト教の信徒
パウロ
コリント人に向けて
書いたとされる手紙です)




女優の
満島ひかりさんが
脚光を浴びるきっかけとなった
園子温監督作
「愛のむきだし」
においても
鬼気迫る勢いで
読まれた
そのシーンは
映画史に残る
名シーンとして
コアな
映画ファンの記憶にも
強く
刻まれているかと思います
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出典:www.youtube.com



最高の道である愛

たとえ
人間の不思議な言葉
天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ
私は鳴る銅鑼
響くシンバル

たとえ
予言の賜物があり
あらゆる神秘
あらゆる知識に
通じていても
愛がなければ
私は何物でもない

たとえ
全財産を貧しい人に分け与え
たとえ
称賛を受ける為に
自分の身を引き渡しても
愛がなければ
私には何の益にもならない

愛は寛容なもの
慈悲深いものは愛
愛は妬まず
高ぶらず
誇らない
見苦しい振る舞いをせず
自分の利益を求めず
怒らず
人の悪事を数えたてない

愛は決して
滅び去ることはない
予言の賜物なら
廃りもしよう
不思議な言葉ならば
止みもしよう
知識ならば
無用となりもしよう

我々が知るのは
一部分
また予言するのも
一部分である故に
完全なものが
到来するときには
部分的なものは
廃れさる

私は
幼い子供であったとき
幼い子供のように語り
幼い子供のように考え
幼い子供のように
思いを巡らした

ただ
一人前の者になったとき
幼い子供のことは
やめにした

我々が今見ているのは
ぼんやりと鏡に映っているもの
そのときに見るのは
顔と顔を合わせてのもの
私が今知っているのは
一部分

そのときには
自分がすでに
完全に知られているように
私は
完全に知るようになる

だから
引き続き残るのは
「信仰」
「希望」
「愛」
この三つ

このうち
最もすぐれているのは
「愛」





イエスの真意を
受け継いだであろう
パウロですら
「一部分」をしか
知らない

そう語る
それ(愛)
この世における
裏切りや
こころ変わりや
生死によって
うしなわれるような
ちゃちなもので
あるはずもなく





「部分」を超えた
「完全なる愛」は
肉体を持ってしては
知覚不可能な
彼岸(0の世界)から
此岸(2の世界)までをも
つらぬく
不断(永遠)の主柱




そして
「自分がすでに
完全に知られているように」


「知る側のもの」とは
「0」の世界の
ビジョンにおける
知覚不可能領域
のことです




だからこそ
ぼくらは
パウロが語ったように
遅かれ早かれ
完全に
知ることになる
のかも
しれません

ぼくらの──
鏡越しではない
真実の姿を






昨日の記事
「自己愛」すべての人間に生えた見えない翼
にもとづきました


今日も
ありがとうございました





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コメント

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コリント人への手紙第一 13章さん

ご指摘ありがとうございます。

この記事は、
冒頭にも書いてあるとおり、
聖書が、どこまでがイエスの真意が汲み取られたものなのか、
それはわからない
という前提で書きました。

コリントの信徒への手紙が
パウロが書いた(とされているもの)であることは、
ぼくも存じ上げております。

ですが、
そのパウロのくだりすらもが
フィクションかもしれず
(そう言ってしまうと
イエスですらもそうなのですが)
けれどもこの文書の中には
キリスト教の発端となった
イエス(が実在したと仮定して)の息吹のようなものを
感じれると。

そういう仮定のもとで書いた記事ということを
冒頭にお伝えしたつもりだったのですが、
説明が十分ではなかったようですね。

それと、指摘してくださった「自己愛」と、
ここで書かれている「自己愛」とは、
意味がまったく違います。
よろしければ一日前の記事も
ご覧ください。

いろいろと誤解を与えるような表現になってしまったようで
申し訳ありませんでした。

ご指摘を踏まえて
少しだけ修正してみようと思います。

全部間違えていますよ。

このコリント人への手紙第一13章はイエス・キリストが語った言葉ではなく、著者パウロがコリント人へ送った手紙です。つまり、ここで書かれている内容はパウロの言葉です。それから、キリストは自分を捨て(つまり罪を捨て)わたしについてきなさい、と。マルコによる福音書8章34~38節)「それから、イエスは群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。・・・とあるように自己愛を捨てる事を教えています。なぜならば自己愛が過ぎると、罪に陥りやすくなるからです。
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