2018/09/15
「悟った人」は一人も存在しない世界 後編
本日もお越しいただき
ありがとうございます
昨日の記事
「悟った人」は一人も存在しない世界 中編
では
「悟った人」は
一人も存在しない
その「証明」を
試みました
ぼくは
過去
自分が
「覚者」だと
名乗り出たことは
一度もなく
「覚醒したとしか
言いようがない
体験をした」
といった
ニュアンスのことだけ
都度
お話してきました
「覚者」と
名乗ることなく
ここまで生きて来て
今もってなお
「覚者」の肩書を
持とうとしない理由は
昨日の記事のとおり
いかなる覚者も
いかなる覚醒体験者も
「よろこび」「かなしみ」
「好き」「嫌い」
「光」「闇」
「上」「下」
「長い」「短い」
「いい」「わるい」
といった
「二元性」という
この
「リアル人生ゲーム」の
ルールに反し
カスタマイズされた
裏技的ビジョンを
事故的に
享受しただけの
一人の人間
ひとつの肉体と
ひとつの主観を
やどした
ギターが
得意な人や
泳ぐのが
得意な人や
絵を描くのが
得意な人と
おんなじ
特別でも
なんでもない
強くもあり
弱くもある
どこにでもいる
生身の人間
だからです
では──
覚醒体験
そのもの
真理的
気づきを得たこと
そのものには
果たして
なんの意味も
ないものなのでしょうか?
ぼくは
そうは思いません
ぼくには
「覚醒体験をした」
という
自負があり
その体験が
あるからこそ
見える世界があり
伝えられることがあると
こうして今も
ブログを書くことを
くりかえしているわけですが
実は
ブッダも
おそらくは
キリストもまた
本質的には
同じことを
しようとした
だけのことなのです
涅槃(彼岸)の
境地に
到達することこそが
輪廻からの
解脱であり
人間の
最終目標であることを
教え示したと
伝えられることが多い
ブッダですが
決して
そこ(涅槃)から
動かずに
とどまれとは
ぼくが知る限りでは
言ってないんですね
「涅槃(彼岸)」は
死後の世界のこと
ではなく
「今のここ(此岸)」に
あります
輪廻からの
解脱とは
くりかえされる
生まれ変わりの
連鎖からの
解脱などではなく
くりかえされる
偏見や
思い込み
狭い視野からの
解脱です
ブッダは
あるがままの世界(彼岸)を
体得したなら
そこからが
この世(此岸)における
新たなる
スタートラインであり
折り返し地点であり
彼岸から得たものを
此岸に実現させながら
生きよと──
むしろ
それこそが
大事なことだ
と
言いたかったのだと
ぼくは解釈します
禅宗に伝わる
「十牛図」という
悟りの
10段階の
プロセスを描いた
10枚の絵詩が
ありますが
10番目の
入鄽垂手(にってんすいしゅ)に
まさに
同じことが
記されています

出典:www.lifedesignmethod.jp
極楽浄土に
往生した人が
人間の姿として
再びよみがえり
他者を導くという
浄土教の
還相回向(げんそうえこう)の
教えのなかにも
ブッダの
真意が
形を変えていった
その形跡を
見ることができます
よくもわるくも
大衆が
のみこみやすいように
するための
後付けの
「死後の世界」という
配慮だったのかも
しれませんね
「NO苦行」
「NO出家」
「NO妻帯」
といった
ストイック要素の
ほとんどを排した
大衆目線の
そのかいあってか
派生宗派の
浄土真宗は
日本で一番
普及している
仏教だと
言われております
話がそれましたが
最後に
ブッダが
そう望んだからと言って
すべての人が
十牛図のとおりに
生きるべきだなんてことは
ぼくは
微塵も思いません
ぼくのように
やりたい人が
やればいいだけの話で
ぼくのような人間の
ビジョンを
活かしたいと
思った人だけ
それを活かせばいいだけの
話です
それでは
みなさんの
これからの人生が
これまで以上に
豊かなビジョンで
あふれますように
小難しいお話が
三日間続きましたが
みなさん
お付き合いくださり
ありがとうございました
記事のきっかけを
くださった
ひまわりさんも
ありがとうございました

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「悟った人」は一人も存在しない世界 中編
では
「悟った人」は
一人も存在しない
その「証明」を
試みました
ぼくは
過去
自分が
「覚者」だと
名乗り出たことは
一度もなく
「覚醒したとしか
言いようがない
体験をした」
といった
ニュアンスのことだけ
都度
お話してきました
「覚者」と
名乗ることなく
ここまで生きて来て
今もってなお
「覚者」の肩書を
持とうとしない理由は
昨日の記事のとおり
いかなる覚者も
いかなる覚醒体験者も
「よろこび」「かなしみ」
「好き」「嫌い」
「光」「闇」
「上」「下」
「長い」「短い」
「いい」「わるい」
といった
「二元性」という
この
「リアル人生ゲーム」の
ルールに反し
カスタマイズされた
裏技的ビジョンを
事故的に
享受しただけの
一人の人間
ひとつの肉体と
ひとつの主観を
やどした
ギターが
得意な人や
泳ぐのが
得意な人や
絵を描くのが
得意な人と
おんなじ
特別でも
なんでもない
強くもあり
弱くもある
どこにでもいる
生身の人間
だからです
では──
覚醒体験
そのもの
真理的
気づきを得たこと
そのものには
果たして
なんの意味も
ないものなのでしょうか?
ぼくは
そうは思いません
ぼくには
「覚醒体験をした」
という
自負があり
その体験が
あるからこそ
見える世界があり
伝えられることがあると
こうして今も
ブログを書くことを
くりかえしているわけですが
実は
ブッダも
おそらくは
キリストもまた
本質的には
同じことを
しようとした
だけのことなのです
涅槃(彼岸)の
境地に
到達することこそが
輪廻からの
解脱であり
人間の
最終目標であることを
教え示したと
伝えられることが多い
ブッダですが
決して
そこ(涅槃)から
動かずに
とどまれとは
ぼくが知る限りでは
言ってないんですね
「涅槃(彼岸)」は
死後の世界のこと
ではなく
「今のここ(此岸)」に
あります
輪廻からの
解脱とは
くりかえされる
生まれ変わりの
連鎖からの
解脱などではなく
くりかえされる
偏見や
思い込み
狭い視野からの
解脱です
ブッダは
あるがままの世界(彼岸)を
体得したなら
そこからが
この世(此岸)における
新たなる
スタートラインであり
折り返し地点であり
彼岸から得たものを
此岸に実現させながら
生きよと──
むしろ
それこそが
大事なことだ
と
言いたかったのだと
ぼくは解釈します
禅宗に伝わる
「十牛図」という
悟りの
10段階の
プロセスを描いた
10枚の絵詩が
ありますが
10番目の
入鄽垂手(にってんすいしゅ)に
まさに
同じことが
記されています

出典:www.lifedesignmethod.jp
極楽浄土に
往生した人が
人間の姿として
再びよみがえり
他者を導くという
浄土教の
還相回向(げんそうえこう)の
教えのなかにも
ブッダの
真意が
形を変えていった
その形跡を
見ることができます
よくもわるくも
大衆が
のみこみやすいように
するための
後付けの
「死後の世界」という
配慮だったのかも
しれませんね
「NO苦行」
「NO出家」
「NO妻帯」
といった
ストイック要素の
ほとんどを排した
大衆目線の
そのかいあってか
派生宗派の
浄土真宗は
日本で一番
普及している
仏教だと
言われております
話がそれましたが
最後に
ブッダが
そう望んだからと言って
すべての人が
十牛図のとおりに
生きるべきだなんてことは
ぼくは
微塵も思いません
ぼくのように
やりたい人が
やればいいだけの話で
ぼくのような人間の
ビジョンを
活かしたいと
思った人だけ
それを活かせばいいだけの
話です
それでは
みなさんの
これからの人生が
これまで以上に
豊かなビジョンで
あふれますように
小難しいお話が
三日間続きましたが
みなさん
お付き合いくださり
ありがとうございました
記事のきっかけを
くださった
ひまわりさんも
ありがとうございました
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コメント
ひまわりさん
まさに、ぼくがいつか書こうと思っていたことを、
ひまわりさんが先回りして仰ってくださいました。
ぼくが危惧するのもそこで、
「段階」とか「レベル」という言い方になると、
どうしても下のレベルの人が劣っていて、
上のレベルの人が優れているかのような、
そういう見方をされる人が多く出てくることが、
予想されますよね。
本当はただ、
おのおの与えられた学びのステージが違うだけのことで、
自転車のそれぞれのパーツに優劣などなくて、
それぞれのパーツが役割を果たさないと、
自転車として使えないのと同様で、
様々なパーツ(レベル)を担当する人が、
そのパーツの役割を果たしてるからこそ、
この世界は豊かな世界として存続できるのです。
たとえば悟った段階の人が「ベル」だとして、
ベルしかない自転車(世界)なんて、
そもそも乗れないし面白くないし、
まっぴらごめんですよね笑
2018/09/17 22:36 by 友資 URL 編集
こんばんは
>どの段階にある人も交わることができるこのフィールド(この世界)
これはすごく重要ですね。こういうと段階=差別とかいう人が湧いてきますけど、差別とは次元が違うのですけどね。w
生き方にもたくさんの段階があってそれらが同じフィールド(この世界)に混在するというビジョンを私は曼荼羅の世界観的に見ています。
そしてこれこそがこの世の存在する意味でもあるとも考えています。
2018/09/17 19:18 by ひまわり URL 編集
ひまわりさん
まさに二律背反です。
「悟り」にはボーダーラインが引けないと、
お話ししてきましたが、
ものすごくざっくりとであれば
何段階かに分けれるのかもしれないと
ここ最近考えているところです。
もしそれができれば、
それぞれの段階のビジョンを持った人たちが、
相互理解していけるような、
ひとつの指標を示せるかもしれませんね。
いずれにしろ、
ひまわりさんがおっしゃるとおり、
どの段階にある人も
交わることができる
このフィールド(この世界)に
意義ある何かを反映させたいと、
そう思います。
2018/09/17 12:05 by 友資 URL 編集
こんばんは
それゆえに全体像を理解するのが難しいのかもしれません。
私は特殊能力がありませんが、二律背反的な要素を統合するこれらの思想というのが面白いと思っています。
そして、もっとも重要なのが「それらの思想をどのようにこの世の生き方に反映させるか」だと思っています。
2018/09/16 18:34 by ひまわり URL 編集
ひまわりさん
ぼくは一人に対してではなく、
様々な地点や角度のビジョンを持った、
読者のみなさんすべてに、
できうる限り届くような、
そんな言葉選びをして常日頃書いているのですが、
このコメントは、
ひまわりさん個人に対してのコメントなので、
あえて今回は、
究極的ビジョンでお話させていただきます。
「ゴール」も「スタート」も、
人間的幻想です。
「この世」も「あの世」もまた、
人間的幻想です。
「生」と「死」
「外」と「内」
「完全」と「不完全」
解脱に「近い」「遠い」
これらすべての概念が
人間的幻想です。
このように、
真理とはあまりにも身もふたもないもので、
それ以上言えることがなくなってしまうくらいに、
素っ気ないものなんですね。
だからその領域を「無」だとか「空」という一字で、
後世の仏教はたとえるのです。
>もっとも私は解脱したいとかは思わないのです。
ご安心ください。
そもそも「解脱」もまた人間的幻想です。
>自分のしたことのすべては自分に還るのが真理
これは「自分」をどの視点の「自分」から切り取るかで答えが変わるのですが、
「人間個人」としての意味合いであれば、
すべては還りません。
覚醒的視点の「自分」から切り取るのであれば、
すべては還ります。
ぼくのこの返答で、
物理的なもの以上の見えない壁、
覚醒視点というものが、
万人に受け入れられない理由が
お分かりいただけたかと思います。
そもそも「求めて」どうにかなるものではなく、
記事でもお話ししたとおり、
単なる「事故」でしかないのです。
2018/09/16 11:02 by 友資 URL 編集
こんばんは
私は中村元さんの訳本、スッタニパータ、ダンマパダ、マハパリニッバーナスッタンタしか読んでいないので他の仏教聖典はよく知りません。
そこにかかれている言葉を見ると個人的には涅槃は大きな意味で「この世にもあり、あの世にもある」と私は思っています。
輪廻からの解脱は確かに
>そこ(涅槃)から動かずにとどまれとはぼくが知る限りでは言ってないんですね
ですけど、それは最終目的だからではないでしょうか?私はゴール的なものかと思っています。
>偏見や思い込み狭い視野からの解脱
確かにこの世ではそうではありますね。でもこれだと少し狭義かなと思います。それらを含めた真理に基づく大きな世界観と生死観であるような気がします。
もっと言ってしまえば生死に関係なく、~「自己の内なるもの」が真理に即した状態~こそが涅槃の状態なのかなと想像しています。
まあ、そもそも人間なんて不完全なものであるし、すべて完璧な人などいないという前提に立つのなら完璧な解脱者もこの世ではいないと言ってもいいでしょう。
覚者というのはこの世では「普通の人よりは解脱に近い人である」といえましょう。
もっとも私は解脱したいとかは思わないのです。
ただ「この世のすべてが自己責任なのだから好きなように生きるといい。(たとえ間違っていても)ただし、自分のしたことのすべては自分に還るのが真理であるのだから、その仕組みは知っておいた方が自分の身のためでもあるのじゃないかな。」と私は思っています。
2018/09/15 19:42 by ひまわり URL 編集