2018/09/13
「悟った人」は一人も存在しない世界 前編
本日もお越しいただき
ありがとうございます
今日から
三日間続く記事は
一度読んだだけでは
理解しがたい
内容かもしれません
また
「特定の宗教」を
信仰している方や
真剣に
「悟り」の道を
志している方は
不快に感じる
可能性がある
内容です
正しい
用法も
用量も
示すことができない
内容なので
それでも
読みたいと思った
もの好きな方だけ
読み進めてみてください
前置きとして
もうひとつだけ
言えることは
この記事もまた
アースフルなビジョンの
多角性の
そのひとつにすぎない
ということです
このブログでは
封印するつもりでいた
「悟り」
「覚醒」
といった
世間一般的には
異次元的なイメージの
特異な概念についての
お話です
一昨日の記事
ロボット(AIBO)は「こころ」「魂」を宿しているか
に対し
ひまわりさんから
こんなコメントが
寄せられました
心と魂の違いを覚者は分けていると思います。
お釈迦様は心は「移ろいゆくもの」として捉え、魂を「永遠のもの」として捉えたと思うのですけど、間違ってますか?
私自身も心は「この世のもの」として捉えています。心は「魂の一部」と「動物としての性」によって構成されていると思います。
魂は「永遠」かどうかはわかりませんが、「あの世とこの世の境のないもの」「自分であり、他者であり、集合体の一部」として捉えています。
正解を知る由もありませんが。
初めに
>お釈迦様は心は「移ろいゆくもの」として捉え、魂を「永遠のもの」として捉えたと思うのですけど、間違ってますか?
という部分なのですが
お釈迦様(ブッダ)は
そもそもの
「心」
「魂」
「永遠」
といった
あらゆる概念を
「実体」として
認めていなかったと
されているので
仏教の
本質的な見地から
読み解くなら
誤りであると
言うことができると思います
ですが
ブッダとイエスが「紙」に言葉を残さなかったその理由
の記事でも
お話ししたとおり
2600年前のことですから
現存する
あまりに膨大な
宗派や仏典の
どこから
どこまでが
ブッダ本人の
意図するところだったのか
誰にも
確かめようがありません
まさに
ひまわりさんが
おっしゃったとおり
正解を知る由もありません
そんなことより
今回
記事にさせていただこうと
踏み切った
きっかけになったものは
何より
以下の
一行目に記された
「覚者」というワードです
>心と魂の違いを覚者は分けていると思います。
「覚者」とは
世間一般的には
「悟った人」という
認知のされ方ですが
「覚者」
「悟り」
という
本来なら
定義不可能な
概念に
あえて
このブログならではの
定義を加えるなら
グーグルアースの
ズームアウト機能の
その限界値を超えた
先にある
全宇宙が見渡せる視点
というよりも
全宇宙
そのものになった視点
であると
言うことが
できそうなのですが
ぼくは過去
その
「覚者」や
「悟り」についての
トピックも含む
ブログを
名称を変えながら
数年間
続けてきました
そんなブログを
スタートさせるに
至ったのは
ブッダが
菩提樹の下で
悟りをひらいたように
ぼく自身にもまた
「覚醒体験をした」と
確信せざるをえない
特異な体験が
あったからで
そこから
得たものが
多くの人の
役に立つかもしれない
という
ある種の
全能感と
同じような同士が
他にもいることを
知ったことからの
行動だったのですが──
「覚者」と呼ばれる
同士たちと
接していくなかで
あるときぼくは
気づいてしまったんですね
自分自身は
もちろんのこと
「悟り」を語る
どのメッセンジャーも
過去の
あらゆる
聖人たちにも
「悟った」とされる人にも
「覚者」とされてる人にも
「悟った人」は
一人として
存在しないことを
そして
この気づきこそが
本当の意味での
「悟り」であり
「覚醒」でもあり
「スタートライン」だった
のです
そう理解した
その理由は──
次の記事に
ゆだねます
それでは
また明日
今日も
ありがとうございました

お風呂が気持ちいい
季節になって参りました

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一度読んだだけでは
理解しがたい
内容かもしれません
また
「特定の宗教」を
信仰している方や
真剣に
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志している方は
不快に感じる
可能性がある
内容です
正しい
用法も
用量も
示すことができない
内容なので
それでも
読みたいと思った
もの好きな方だけ
読み進めてみてください
前置きとして
もうひとつだけ
言えることは
この記事もまた
アースフルなビジョンの
多角性の
そのひとつにすぎない
ということです
このブログでは
封印するつもりでいた
「悟り」
「覚醒」
といった
世間一般的には
異次元的なイメージの
特異な概念についての
お話です
一昨日の記事
ロボット(AIBO)は「こころ」「魂」を宿しているか
に対し
ひまわりさんから
こんなコメントが
寄せられました
心と魂の違いを覚者は分けていると思います。
お釈迦様は心は「移ろいゆくもの」として捉え、魂を「永遠のもの」として捉えたと思うのですけど、間違ってますか?
私自身も心は「この世のもの」として捉えています。心は「魂の一部」と「動物としての性」によって構成されていると思います。
魂は「永遠」かどうかはわかりませんが、「あの世とこの世の境のないもの」「自分であり、他者であり、集合体の一部」として捉えています。
正解を知る由もありませんが。
初めに
>お釈迦様は心は「移ろいゆくもの」として捉え、魂を「永遠のもの」として捉えたと思うのですけど、間違ってますか?
という部分なのですが
お釈迦様(ブッダ)は
そもそもの
「心」
「魂」
「永遠」
といった
あらゆる概念を
「実体」として
認めていなかったと
されているので
仏教の
本質的な見地から
読み解くなら
誤りであると
言うことができると思います
ですが
ブッダとイエスが「紙」に言葉を残さなかったその理由
の記事でも
お話ししたとおり
2600年前のことですから
現存する
あまりに膨大な
宗派や仏典の
どこから
どこまでが
ブッダ本人の
意図するところだったのか
誰にも
確かめようがありません
まさに
ひまわりさんが
おっしゃったとおり
正解を知る由もありません
そんなことより
今回
記事にさせていただこうと
踏み切った
きっかけになったものは
何より
以下の
一行目に記された
「覚者」というワードです
>心と魂の違いを覚者は分けていると思います。
「覚者」とは
世間一般的には
「悟った人」という
認知のされ方ですが
「覚者」
「悟り」
という
本来なら
定義不可能な
概念に
あえて
このブログならではの
定義を加えるなら
グーグルアースの
ズームアウト機能の
その限界値を超えた
先にある
全宇宙が見渡せる視点
というよりも
全宇宙
そのものになった視点
であると
言うことが
できそうなのですが
ぼくは過去
その
「覚者」や
「悟り」についての
トピックも含む
ブログを
名称を変えながら
数年間
続けてきました
そんなブログを
スタートさせるに
至ったのは
ブッダが
菩提樹の下で
悟りをひらいたように
ぼく自身にもまた
「覚醒体験をした」と
確信せざるをえない
特異な体験が
あったからで
そこから
得たものが
多くの人の
役に立つかもしれない
という
ある種の
全能感と
同じような同士が
他にもいることを
知ったことからの
行動だったのですが──
「覚者」と呼ばれる
同士たちと
接していくなかで
あるときぼくは
気づいてしまったんですね
自分自身は
もちろんのこと
「悟り」を語る
どのメッセンジャーも
過去の
あらゆる
聖人たちにも
「悟った」とされる人にも
「覚者」とされてる人にも
「悟った人」は
一人として
存在しないことを
そして
この気づきこそが
本当の意味での
「悟り」であり
「覚醒」でもあり
「スタートライン」だった
のです
そう理解した
その理由は──
次の記事に
ゆだねます
それでは
また明日
今日も
ありがとうございました

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