2018/10/06
イエスだってブッダだって、一人では何もできない
読者のえびはんさんから
こんなコメントを
いただきました
先月1週間くらい、なんだか何もかもうまくいかなくて、
何してもつまんなくて、何も食べたくなくて(食べてましたが)そんなことがあって、
どこへ向かって居るのかわからなくなったことがありましたが、
ここへたびたび来て、今はアースフルネスの視点を取り戻せつつあります。
わたしもいつか人を助けられたらいいな。
これからもたくさん悩むと思うけど、今はそう思います。
どこへ向かっているのか
わからない
そんなとき人は
こんなブログを
読む余裕なんて
なかなか
持てないと思います
娯楽や
趣味のための
ブログなら
何も考えず
ただ楽しむだけでよいのですが
ぼくのブログは
理性的に
「考える」ことを
うながされる記事が
多いと思われるので
もし
なんにも頭に
入らないくらいに
気分が落ちているときは
みなさん
スマホは機内モードにして
体を休めてくださいね
もしくは
コメントから
その日の
愚痴を吐き出したり
悩みを打ち明けてくださっても
まったく構わないですし(^-^)
ぼくが
力になれるかどうかは
そのときどきに
よると思いますが
相手に伝わるように
アウトプットするという
行為そのものが
こころの整理に
直結します
ところで
えびはんさんから
わたしもいつか人を助けられたらいいな。
という言葉を
最後にいただきましたが
みなさんだったら
人を助ける人と
助けてもらう人
どちらの人に
なりたいと
考えますか?
好きなほうを
選べば
そのとおりに
なれるのなら
人に助けてもらって
生きるよりも
人を助けて
生きれる人になりたい
そう考える方のほうが
多いのではないでしょうか
確かに
歴史をたどっても
スポットを浴びるのは
いつだって
「助けた側」の人ですし
そっちのほうが
承認欲求や
存在意義を
満たしてくれるに
ちがいありません
ですが
実はここに
ひとつの大きな
「見落とし」があります
なぜなら
「人を助ける」
という行為は
「助けられる人」
なくして
成立せず
すべての
「助ける」
「助けられる」は
「1」の世界ビジョンで
読み解くなら
どちらの側にも
優劣がない
助ける側と
助けられる側との
「共同作業」なのです
イエスだって
ブッダだって
ナイチンゲールだって
杉原千畝だって
例外ではありません

出典:noriohayakawa.wordpress.com
困っている人
助けを求めている人が
目の前に
存在しなかったなら
上の四人は
説法をすることができず
看護をすることができず
ビザを発給することができず
自分の能力を
MAX100%
活かすことができません
覚者だろうと
そうでなかろうと
可もなく
不可もない
比較対象がない
無力な一人の人間でしか
なくなってしまうわけです
言うまでもなく
ぼくもまた
ぼくの言葉を
必要としてくれる人が
いなかったなら
あまりにあまりに無力な
一人の人間です
「1」の世界においては
すべての優劣
すべての光と影が
フラットな関係性に
結びついてしまう
これこそが
縁起の真実なんですね
なので
「助ける側の人」になりたい
という
理想を抱きつつも
そうはなれない
他人任せで
受動的な
一人の人間もまた
「替えがきかない役割」を
まっとうしていると
言うことができるのです
あえて
今日は
(誰もそんなことを
言う人がいないので)
「助けられる側」の人の
功績を
記してみました
そうそう
「貸してやるのではなく使っていただく」
信用組合理事長/山本明弘さんに見るアースフルネス
の記事でも
ご紹介した
山本明弘さんもまた
ビジネスという制限の中で
「助けられる側の人」の功績を
体感的に理解している
実践者だと思います
記事のきっかけをくださった
えびはんさん
ありがとうございました

人気ブログランキング
こんなコメントを
いただきました
先月1週間くらい、なんだか何もかもうまくいかなくて、
何してもつまんなくて、何も食べたくなくて(食べてましたが)そんなことがあって、
どこへ向かって居るのかわからなくなったことがありましたが、
ここへたびたび来て、今はアースフルネスの視点を取り戻せつつあります。
わたしもいつか人を助けられたらいいな。
これからもたくさん悩むと思うけど、今はそう思います。
どこへ向かっているのか
わからない
そんなとき人は
こんなブログを
読む余裕なんて
なかなか
持てないと思います
娯楽や
趣味のための
ブログなら
何も考えず
ただ楽しむだけでよいのですが
ぼくのブログは
理性的に
「考える」ことを
うながされる記事が
多いと思われるので
もし
なんにも頭に
入らないくらいに
気分が落ちているときは
みなさん
スマホは機内モードにして
体を休めてくださいね
もしくは
コメントから
その日の
愚痴を吐き出したり
悩みを打ち明けてくださっても
まったく構わないですし(^-^)
ぼくが
力になれるかどうかは
そのときどきに
よると思いますが
相手に伝わるように
アウトプットするという
行為そのものが
こころの整理に
直結します
ところで
えびはんさんから
わたしもいつか人を助けられたらいいな。
という言葉を
最後にいただきましたが
みなさんだったら
人を助ける人と
助けてもらう人
どちらの人に
なりたいと
考えますか?
好きなほうを
選べば
そのとおりに
なれるのなら
人に助けてもらって
生きるよりも
人を助けて
生きれる人になりたい
そう考える方のほうが
多いのではないでしょうか
確かに
歴史をたどっても
スポットを浴びるのは
いつだって
「助けた側」の人ですし
そっちのほうが
承認欲求や
存在意義を
満たしてくれるに
ちがいありません
ですが
実はここに
ひとつの大きな
「見落とし」があります
なぜなら
「人を助ける」
という行為は
「助けられる人」
なくして
成立せず
すべての
「助ける」
「助けられる」は
「1」の世界ビジョンで
読み解くなら
どちらの側にも
優劣がない
助ける側と
助けられる側との
「共同作業」なのです
イエスだって
ブッダだって
ナイチンゲールだって
杉原千畝だって
例外ではありません

出典:noriohayakawa.wordpress.com
困っている人
助けを求めている人が
目の前に
存在しなかったなら
上の四人は
説法をすることができず
看護をすることができず
ビザを発給することができず
自分の能力を
MAX100%
活かすことができません
覚者だろうと
そうでなかろうと
可もなく
不可もない
比較対象がない
無力な一人の人間でしか
なくなってしまうわけです
言うまでもなく
ぼくもまた
ぼくの言葉を
必要としてくれる人が
いなかったなら
あまりにあまりに無力な
一人の人間です
「1」の世界においては
すべての優劣
すべての光と影が
フラットな関係性に
結びついてしまう
これこそが
縁起の真実なんですね
なので
「助ける側の人」になりたい
という
理想を抱きつつも
そうはなれない
他人任せで
受動的な
一人の人間もまた
「替えがきかない役割」を
まっとうしていると
言うことができるのです
あえて
今日は
(誰もそんなことを
言う人がいないので)
「助けられる側」の人の
功績を
記してみました
そうそう
「貸してやるのではなく使っていただく」
信用組合理事長/山本明弘さんに見るアースフルネス
の記事でも
ご紹介した
山本明弘さんもまた
ビジネスという制限の中で
「助けられる側の人」の功績を
体感的に理解している
実践者だと思います
記事のきっかけをくださった
えびはんさん
ありがとうございました
人気ブログランキング
- 関連記事
-
-
「神」という概念を超えた「神」マイスター・エックハルトとスピノザ 2019/01/21
-
「信じる」の障壁を超えてその人にふれる ~エホバの証人~ 2018/10/29
-
イエスだってブッダだって、一人では何もできない 2018/10/06
-
ブッダだって石につまずいて転ぶ 2018/09/29
-
ブッダとイエスが「紙」に言葉を残さなかったその理由 2018/08/31
-
コメント