2018/08/09
最愛の人の死に直面したそのとき、アースフルネスは何ができるのか
突然の死は
どういうわけか
「逝かれては困る人」にばかり
避けがたく訪れます。
ぼくもまた
過去に
大切な友人をうしなった
その一人です。
そのかなしみは
ぼくの未来を
完全に閉ざしたかに
そのときは見えました。
ですが
そのできごとは同時に
昨日の記事
「驚き」が世界を変えていく 多田克彦
で言うところの
「驚き」でもありました。
「驚き」は
必ずしも
「希望のカタチ」だけを
宿しているものではなく
「絶望のカタチ」を
宿した「驚き」も
この世界には存在していて──
その絶望は
自分とは何か?
生きるとは何か?
と「考え」「問いかけ続ける」
「行動」を
ぼくにもたらしました。
それまでそんな
哲学的な問いを
自らに立てたことなどなかった
ぼくに起きた変化を
現代的な言語で
言い表すなら
パラダイムシフト
(物事の見え方や
人生観が
大きく変わること)
という言葉が
近いように思えます。
友人が
存在することは
呼吸をすることくらいに
あたりまえなことで
これからも二人の人生が
続いていくことが
当然だったはずの
自分がもっとも必要とする人間の
突然の消滅。
友人は
いつなんどきも
このぼくと
まるでともに
手足を動かしているかのように
まるでともに
かなしみ
ともに人を好きになり
ともに考え
ともに笑いあっているかのように
ぼくのこの
同じ肉体を共有していると
彼はきっと
神様になったのだから
ぼくのなかには
神様が宿っているのだと──
そんなふうに考えることが
友人をうしなった自分を
どうにか支えていく
唯一の手段でした。
その後
俳優だったり
小説家だったり
希望のカタチとしての
「驚き」をもたらしてくれた
様々な狭き門に
挑戦しては
失敗と挫折をくり返し
「なんでおまえは
力を貸してくれないんだ」
「オレたち親友じゃないのか」と
自らの自堕落や
努力不足を棚に上げ
友人に八つ当たりする
なんていう
情けなくて
見苦しいことも
何度もありました。
亡き友人のせいにでもしなければ
正気でいられないほどに
ぼくは弱い人間で
ずるい人間で
おそらくは
友人に甘えていました。
ですが
同時並行的に
たくさんの経験
たくさんの映画や
たくさんの音楽
新たな視点を持った
新たな人との出逢いが
「友人の死」
という問題に対し
いっぽ
いっぽ
ズームアウトしていくように
ゆっくりと
ゆっくりと
アースフルネス的視点を
もたらしていってくれたんですね。
そして
さらにときを経た
あるとき
第二のパラダイムシフトが
ぼくをゆるがした
そのときから──
ぼくは本当の意味で
友人とひとつになることが
できました。
彼に(心理的に)寄りかかることも
もうなくなり
不要な傷を負うことも
なくなり
神にすがるようなことも
まったくなくなりました。
このときの
パラダイムシフトこそが
このブログ
「アースフルネスライフのすすめ」の
原点です。
取り返しのつかない
致命傷を
自らのこころに負い
長いときを経ても
傷口がまったく癒えない人
不要な思い込みで
不要な傷を
日々負い続けてしまう
悪循環のなかに在る人
あるいは
人生への絶望や
虚無的発想から
自死を決断する人も
数多く存在する
この世界において
アースフルネスが
そんな人を
そして
そんな人のそばで
見守り続ける人の
一条の光となることを
願いつつ
多様な考え方や
多様な性の在り方
多様な価値観や
多様な幸福のカタチが
少しでも認められる世界を
ここ「アースフルネスライフのすすめ」から
微力ながら
ぼくと
読んでくださるみなさんとで
形作っていきたい
そんな今日この頃です。

このサボテンからふたまたの花が咲くのは初めて

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どういうわけか
「逝かれては困る人」にばかり
避けがたく訪れます。
ぼくもまた
過去に
大切な友人をうしなった
その一人です。
そのかなしみは
ぼくの未来を
完全に閉ざしたかに
そのときは見えました。
ですが
そのできごとは同時に
昨日の記事
「驚き」が世界を変えていく 多田克彦
で言うところの
「驚き」でもありました。
「驚き」は
必ずしも
「希望のカタチ」だけを
宿しているものではなく
「絶望のカタチ」を
宿した「驚き」も
この世界には存在していて──
その絶望は
自分とは何か?
生きるとは何か?
と「考え」「問いかけ続ける」
「行動」を
ぼくにもたらしました。
それまでそんな
哲学的な問いを
自らに立てたことなどなかった
ぼくに起きた変化を
現代的な言語で
言い表すなら
パラダイムシフト
(物事の見え方や
人生観が
大きく変わること)
という言葉が
近いように思えます。
友人が
存在することは
呼吸をすることくらいに
あたりまえなことで
これからも二人の人生が
続いていくことが
当然だったはずの
自分がもっとも必要とする人間の
突然の消滅。
友人は
いつなんどきも
このぼくと
まるでともに
手足を動かしているかのように
まるでともに
かなしみ
ともに人を好きになり
ともに考え
ともに笑いあっているかのように
ぼくのこの
同じ肉体を共有していると
彼はきっと
神様になったのだから
ぼくのなかには
神様が宿っているのだと──
そんなふうに考えることが
友人をうしなった自分を
どうにか支えていく
唯一の手段でした。
その後
俳優だったり
小説家だったり
希望のカタチとしての
「驚き」をもたらしてくれた
様々な狭き門に
挑戦しては
失敗と挫折をくり返し
「なんでおまえは
力を貸してくれないんだ」
「オレたち親友じゃないのか」と
自らの自堕落や
努力不足を棚に上げ
友人に八つ当たりする
なんていう
情けなくて
見苦しいことも
何度もありました。
亡き友人のせいにでもしなければ
正気でいられないほどに
ぼくは弱い人間で
ずるい人間で
おそらくは
友人に甘えていました。
ですが
同時並行的に
たくさんの経験
たくさんの映画や
たくさんの音楽
新たな視点を持った
新たな人との出逢いが
「友人の死」
という問題に対し
いっぽ
いっぽ
ズームアウトしていくように
ゆっくりと
ゆっくりと
アースフルネス的視点を
もたらしていってくれたんですね。
そして
さらにときを経た
あるとき
第二のパラダイムシフトが
ぼくをゆるがした
そのときから──
ぼくは本当の意味で
友人とひとつになることが
できました。
彼に(心理的に)寄りかかることも
もうなくなり
不要な傷を負うことも
なくなり
神にすがるようなことも
まったくなくなりました。
このときの
パラダイムシフトこそが
このブログ
「アースフルネスライフのすすめ」の
原点です。
取り返しのつかない
致命傷を
自らのこころに負い
長いときを経ても
傷口がまったく癒えない人
不要な思い込みで
不要な傷を
日々負い続けてしまう
悪循環のなかに在る人
あるいは
人生への絶望や
虚無的発想から
自死を決断する人も
数多く存在する
この世界において
アースフルネスが
そんな人を
そして
そんな人のそばで
見守り続ける人の
一条の光となることを
願いつつ
多様な考え方や
多様な性の在り方
多様な価値観や
多様な幸福のカタチが
少しでも認められる世界を
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ぼくと
読んでくださるみなさんとで
形作っていきたい
そんな今日この頃です。

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2018/08/10 11:10 by 編集