2018/10/14
「自分のこと」しか知覚することができない世界
本日もお越しいただき
ありがとうございます
ブログを
読んでくれている
友人から
ロボット(AIBO)は「こころ」「魂」を宿しているか
の記事を受けて
こんなニュアンスの質問を
受けました
「ロボットのこころや魂が
自分のこころや魂だって言うなら
他人のこころや魂は?」
同じように
思った方が
多くいらっしゃるかもしれません
結論から
言ってしまえば
上記の記事から
引いた
以下の言葉は
ロボットに
「こころ」と
「魂」とを
見た
その人は
自分自身の
「こころ」と
自分自身の
「魂」とを
ロボットという
「鏡」
あるいは
「通路」を通じて
見ていると
言うことができそう
なのです
そのまま
「ロボット」と
「他人」を
入れ替え
以下のように
読むことができます
他人に
「こころ」と
「魂」とを
見た
その人は
自分自身の
「こころ」と
自分自身の
「魂」とを
他人という
「鏡」
あるいは
「通路」を通じて
見ていると
言うことができそう
なのです
おどろくべきことに
ぼくらが
他者と
交わり
かかわりあいながら
感受する
その表情や様子
発言や行動などから
ある程度は
読み取っていたかに
思えていた
他者の
「こころ」は
実は
自分自身の
「こころ」そのもの
だったんですね
よって
他人は
「他人」であるのと
同時に
「自分」でもある
ということになります
どうして
そんなことが言えるのか?
なぜなら
みなさんは
いつなんどきでも
「他人に
自分をしか
見れない」
からです
他人と対峙し
見て
感じる
すべての感情や
起こる思考は
自分のものの見方
好き嫌い
経験や記憶
そういったもので
つちかわれた
「自分ものさし」によって
解釈され
判断された
「自分視点」の
その人(他人)です
他者と
共鳴し
一緒に泣いたり
一緒に笑ったりしながら
「通じあえた!」
と思えた
ひとつになれた感覚は
一本のケーブルが
ダイレクトに
お互いの体に
挿し込まれているかのごとく
通じ合ったからこその
感覚なわけではなく
通じ合えた!
と思える錯覚(体感)は
自分自身の世界(ビジョン)を通して
お互いの
相容れない
それぞれの世界の中で
完結した味わい
であると
言うことができます
他人(人間)に限りません
動植物にも
山々や海にも
あおい空や
流れる雲にも
機械やアスファルトにも
太陽や月にも
そして宇宙にも
目に映る
すべてのもの
肉体とこころとで
知覚できる
すべてのものが
「自分」というフィルターを
通過し
大幅に純度が下がり
制限された世界をしか
ぼくら人間は
知覚できていません
つまるところ
タイトルのとおり
この世界は
「「自分のこと」しか
知覚することができない世界」
としか
言いようがないんですね
では──
結局のところ
人間同士が
錯覚としてではなく
本当の意味で
ダイレクトに繋がれる手段は
どこにもないものなのか?
いえいえ
そもそも
この疑問の前提が
間違いなのです
「2」の世界(因果の世界)では
脳の働きによる
錯覚的な作用でしか
ぼくら人間が
繋がれていなくとも
ぼくらは
この世界の
根源となる領域
「0」の世界を通じて
ハナから
繋がっているし
繋がっていなかったことなど
これまで
一度たりとも
起こったことがないうえに
この先も
繋がりが
途絶えることは
決して
起こりえないんですね

出典:beherenownetwork.com
そしてぼくらは
その繋がりを
ほとんど無自覚に
体感する体験を
おりにふれて
くりかえしているのですが──
そのお話は
また別の機会に(^_^)
ここ最近
寒くなってきました
風邪などひかぬよう
ご自愛ください
今日も
ありがとうございました

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ありがとうございます
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読んでくれている
友人から
ロボット(AIBO)は「こころ」「魂」を宿しているか
の記事を受けて
こんなニュアンスの質問を
受けました
「ロボットのこころや魂が
自分のこころや魂だって言うなら
他人のこころや魂は?」
同じように
思った方が
多くいらっしゃるかもしれません
結論から
言ってしまえば
上記の記事から
引いた
以下の言葉は
ロボットに
「こころ」と
「魂」とを
見た
その人は
自分自身の
「こころ」と
自分自身の
「魂」とを
ロボットという
「鏡」
あるいは
「通路」を通じて
見ていると
言うことができそう
なのです
そのまま
「ロボット」と
「他人」を
入れ替え
以下のように
読むことができます
他人に
「こころ」と
「魂」とを
見た
その人は
自分自身の
「こころ」と
自分自身の
「魂」とを
他人という
「鏡」
あるいは
「通路」を通じて
見ていると
言うことができそう
なのです
おどろくべきことに
ぼくらが
他者と
交わり
かかわりあいながら
感受する
その表情や様子
発言や行動などから
ある程度は
読み取っていたかに
思えていた
他者の
「こころ」は
実は
自分自身の
「こころ」そのもの
だったんですね
よって
他人は
「他人」であるのと
同時に
「自分」でもある
ということになります
どうして
そんなことが言えるのか?
なぜなら
みなさんは
いつなんどきでも
「他人に
自分をしか
見れない」
からです
他人と対峙し
見て
感じる
すべての感情や
起こる思考は
自分のものの見方
好き嫌い
経験や記憶
そういったもので
つちかわれた
「自分ものさし」によって
解釈され
判断された
「自分視点」の
その人(他人)です
他者と
共鳴し
一緒に泣いたり
一緒に笑ったりしながら
「通じあえた!」
と思えた
ひとつになれた感覚は
一本のケーブルが
ダイレクトに
お互いの体に
挿し込まれているかのごとく
通じ合ったからこその
感覚なわけではなく
通じ合えた!
と思える錯覚(体感)は
自分自身の世界(ビジョン)を通して
お互いの
相容れない
それぞれの世界の中で
完結した味わい
であると
言うことができます
他人(人間)に限りません
動植物にも
山々や海にも
あおい空や
流れる雲にも
機械やアスファルトにも
太陽や月にも
そして宇宙にも
目に映る
すべてのもの
肉体とこころとで
知覚できる
すべてのものが
「自分」というフィルターを
通過し
大幅に純度が下がり
制限された世界をしか
ぼくら人間は
知覚できていません
つまるところ
タイトルのとおり
この世界は
「「自分のこと」しか
知覚することができない世界」
としか
言いようがないんですね
では──
結局のところ
人間同士が
錯覚としてではなく
本当の意味で
ダイレクトに繋がれる手段は
どこにもないものなのか?
いえいえ
そもそも
この疑問の前提が
間違いなのです
「2」の世界(因果の世界)では
脳の働きによる
錯覚的な作用でしか
ぼくら人間が
繋がれていなくとも
ぼくらは
この世界の
根源となる領域
「0」の世界を通じて
ハナから
繋がっているし
繋がっていなかったことなど
これまで
一度たりとも
起こったことがないうえに
この先も
繋がりが
途絶えることは
決して
起こりえないんですね

出典:beherenownetwork.com
そしてぼくらは
その繋がりを
ほとんど無自覚に
体感する体験を
おりにふれて
くりかえしているのですが──
そのお話は
また別の機会に(^_^)
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寒くなってきました
風邪などひかぬよう
ご自愛ください
今日も
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コメント
承認待ちコメント
2018/11/20 08:00 by 編集
ひまわりさん
ひまわりさんの率直な意見が、
読者を置いてけぼりにしていることに気づかせてくれるので、
とてもありがたく思っております。
実は昨日の記事は2であり、同時に1でもあるお話なのですが、
これからアップする記事は、
昨日の記事の補足的な意味の内容になるかと思います。
それでもなお、
答えになっていないと感じさせてしまうかもしれませんが。
それと以前、
いただいたコメントから、
記事を組み立てさせてほしいというお話を
させていただきましたが、
最終的には当初思っていたよりあまりいい記事に仕上がらず、
投稿を断念することにしました。
ぼくの力不足で申し訳ありません。
2018/10/15 10:40 by 友資 URL 編集
こんばんは
1元的に見るなら、答えになってないですからね。
多元的視野で見れば、これも理解できるのですがなかなかスムーズに頭で理解するのは難しい。
もっとも、この仕組みはすでにお釈迦様の教えに観られる(と理解しています。)のでそれを知る人は理解しやすいかと思います。
ただ、人が求める答えとは違うのでやはり一般的に理解されるのは難しいでしょうね。
2018/10/14 19:35 by ひまわり URL 編集