2019/03/05
vol.16 「自己愛」はこの世ならざる「愛」<三本の柱>ってなに?愛編
本日もお越しいただき
ありがとうございます
新しく動画を投稿しました
今回も前回に引き続き
初期キリスト教の使徒パウロが
コリント共同体の人々へ説いた
この世から失われることがないもの
「希望」「信仰」「愛」のうちの
「愛」についての
動画解説をしています
また
動画の中で
ぼくが解せないこととして
「なぜにイエスは神を「天の父」と呼ぶのか?」
という疑問について
「バーソは自由に」のブログ著者の
バーソさんから
丁寧な考察を回答いただいております
以下にその部分を
引用させていただきます
バーソさんありがとうございます(^^♪
イエスは神をなぜ「父」と呼んだのか。
聖書から即物的な説明をすれば、本当は神には性別がないと言うべきなんでしょうが、
聖書の神は永遠に存在していて生殖の必要が無いので、性別をあえて言えば「男」なんですね。
というより基本が男なんです。
神は人間の創造者なので、人間の「父」と呼ばれています。
「主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です」イザヤ64:8
神が最初に土(アーダーマー)を材料に創造した「人間」は、男と女の両方ではなく、男のみでした。
「アダム」というヘブライ語はその人の固有名と思われていますが、
「人・人間・地の人」と訳され、個々の人にも人類一般についても用いられ、聖書中に560回以上も出てきています。
その男(の肋骨)から女は造られたのです。
宇宙では地球上だけに男と女が居るとされています。
天界に女はいません。
イエスは、「天使は娶ったり嫁いだりしない。
死人から甦って天国に行く者もそうなる」と言いました。(ルカ20:34-36)
イエスが神を「父」と呼んだのは、当時のユダヤでは神を父親と描写するのが概念的に分かりやすかったせいかもしれませんし、
もしくは畏敬の念を感じさせる「神」という称号よりも、「父」という呼び方のほうが神をより身近に感じることができるので、
イエスは意図して「父」と呼んだのかもしれません。
私は、以前は聖書は神の言葉であり、一点一画も偽りや間違いは無いと信じ込んでいましたが、しかし違うようです。
例えば聖書はどう見ても、男性上位で、女性蔑視。男が主で、女は副なんですね。
宇宙には天使の間に階級があり、会衆(教会)内にも序列があり、
女性信者はどんなに有能でも男性信者を教える立場(牧師)には就けないことになっています。
カトリックの教会堂では女性信者が頭にかぶり物をしていますが、
あれは女性が男性を頭(かしら)とみなしていることの象徴的な習わしで、使徒パウロがそう命じているのです。
コリント第一の手紙を長いですが、引用します。
「11:3 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。
11:4 祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。
11:5 祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。
それは、髪をそったのとまったく同じだからである。
11:6 もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。
髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである」
死に至るまで神に忠節を示せ、そうすれば報いを与えよう(黙示録2:10)、
というような聖句は、どう見ても愛の神の本来の特質ではなく、
封建国家の権力者に都合のいい儒教的な教えです。
神は無条件の愛の持ち主であるはずなのに、
些細な罪でも犯したら罰として死(や地獄行き)が与えられるというのも、おかしな話です。
先祖アダムの罪(原罪)を子孫全員が受け継いでいるというのも、公正の原則に反します。
ユダヤの神殿では、毎年おびただしい数の牛や羊が犠牲にされて神に捧げられたのも妙な話で、
神はそんなに肉好きなのかとも思えます。
そういうことがけっこうあるので、聖書は後の時代にかなり改竄された可能性が大きいと思います。
ですが、面白いことに、信じ切っていると、矛盾と思えることがあっても、それが正しい見方、考え方なのか、
それならそれを受け入れるようにしよう、自分のほうがおかしいのだろうから自分の考え方のほうを調整しよう、
と思って気にならなくなるのです。
というのも「聖書は神の霊感を受けた言葉である」、
「神を愛し、何よりも神のご意思を行なうことを第一とせよ」と教えられると、
その他のことは些末なことになってしまうのですね。
強信と狂信は紙一重。
素直な信仰と盲信も近い距離にあります。
あまりにも熱心な教団にいる真面目な信者は、そういう危険性を持っていますね。
そして後の時代に「三位一体論」として「子なる神」の概念に発展するのですが、
イエスは、自分は天の神から遣わされた神の子であるという認識があったのですね。
だからそういう意味でも神を「父」と呼んだのです。
その証拠の一つとして12歳のときにエルサレムの神殿に行きましたが、そこを「自分の父の家」と呼んでいます。(ルカ2:49)
またイエスは「私の父(神)は今に至るまで働いておられます。
それで私も働いているのです」(ヨハネ5:18)とも語っています。
なお、イエスは「神の子」であるというのは、精神世界でもそう言っており、
人間はすべて神の子、神の分身であると言われています。
(引用終わり)
vol.16
「自己愛」はこの世ならざる「愛」
<三本の柱>ってなに?愛編

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イエスは神をなぜ「父」と呼んだのか。
聖書から即物的な説明をすれば、本当は神には性別がないと言うべきなんでしょうが、
聖書の神は永遠に存在していて生殖の必要が無いので、性別をあえて言えば「男」なんですね。
というより基本が男なんです。
神は人間の創造者なので、人間の「父」と呼ばれています。
「主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です」イザヤ64:8
神が最初に土(アーダーマー)を材料に創造した「人間」は、男と女の両方ではなく、男のみでした。
「アダム」というヘブライ語はその人の固有名と思われていますが、
「人・人間・地の人」と訳され、個々の人にも人類一般についても用いられ、聖書中に560回以上も出てきています。
その男(の肋骨)から女は造られたのです。
宇宙では地球上だけに男と女が居るとされています。
天界に女はいません。
イエスは、「天使は娶ったり嫁いだりしない。
死人から甦って天国に行く者もそうなる」と言いました。(ルカ20:34-36)
イエスが神を「父」と呼んだのは、当時のユダヤでは神を父親と描写するのが概念的に分かりやすかったせいかもしれませんし、
もしくは畏敬の念を感じさせる「神」という称号よりも、「父」という呼び方のほうが神をより身近に感じることができるので、
イエスは意図して「父」と呼んだのかもしれません。
私は、以前は聖書は神の言葉であり、一点一画も偽りや間違いは無いと信じ込んでいましたが、しかし違うようです。
例えば聖書はどう見ても、男性上位で、女性蔑視。男が主で、女は副なんですね。
宇宙には天使の間に階級があり、会衆(教会)内にも序列があり、
女性信者はどんなに有能でも男性信者を教える立場(牧師)には就けないことになっています。
カトリックの教会堂では女性信者が頭にかぶり物をしていますが、
あれは女性が男性を頭(かしら)とみなしていることの象徴的な習わしで、使徒パウロがそう命じているのです。
コリント第一の手紙を長いですが、引用します。
「11:3 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。
11:4 祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。
11:5 祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。
それは、髪をそったのとまったく同じだからである。
11:6 もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。
髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである」
死に至るまで神に忠節を示せ、そうすれば報いを与えよう(黙示録2:10)、
というような聖句は、どう見ても愛の神の本来の特質ではなく、
封建国家の権力者に都合のいい儒教的な教えです。
神は無条件の愛の持ち主であるはずなのに、
些細な罪でも犯したら罰として死(や地獄行き)が与えられるというのも、おかしな話です。
先祖アダムの罪(原罪)を子孫全員が受け継いでいるというのも、公正の原則に反します。
ユダヤの神殿では、毎年おびただしい数の牛や羊が犠牲にされて神に捧げられたのも妙な話で、
神はそんなに肉好きなのかとも思えます。
そういうことがけっこうあるので、聖書は後の時代にかなり改竄された可能性が大きいと思います。
ですが、面白いことに、信じ切っていると、矛盾と思えることがあっても、それが正しい見方、考え方なのか、
それならそれを受け入れるようにしよう、自分のほうがおかしいのだろうから自分の考え方のほうを調整しよう、
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というのも「聖書は神の霊感を受けた言葉である」、
「神を愛し、何よりも神のご意思を行なうことを第一とせよ」と教えられると、
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あまりにも熱心な教団にいる真面目な信者は、そういう危険性を持っていますね。
そして後の時代に「三位一体論」として「子なる神」の概念に発展するのですが、
イエスは、自分は天の神から遣わされた神の子であるという認識があったのですね。
だからそういう意味でも神を「父」と呼んだのです。
その証拠の一つとして12歳のときにエルサレムの神殿に行きましたが、そこを「自分の父の家」と呼んでいます。(ルカ2:49)
またイエスは「私の父(神)は今に至るまで働いておられます。
それで私も働いているのです」(ヨハネ5:18)とも語っています。
なお、イエスは「神の子」であるというのは、精神世界でもそう言っており、
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vol.16
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コメント
承認待ちコメント
2020/12/07 16:34 by 編集
承認待ちコメント
2020/01/30 21:22 by 編集
承認待ちコメント
2019/12/23 19:44 by 編集
承認待ちコメント
2019/04/26 15:30 by 編集
なおたんさん
そして、だからこそ多くの女性にはDNAの中に、
強靭な母性が宿されているのだな、ということを感じました。
子を守り、次の世代へと繋げるために備わった、
女性最強の武器ですね。
実は、すべての人に無償の愛を注げる人間なんて、
ぼくは一人もいないと考えます。
それがほんとにできてしまったなら、
その人はもはや人間ではない何かなんですよね。
なぜなら、顕微鏡で微生物を覗き見たならすべて同じにしか見えないのと一緒で、
そういう人が仮にいるとするなら、
すべての人が優劣なく同じに見えてるはずだからです。
だからこの世でもっとも美しい「無償の愛」は、
この世でもっとも困難なのでしょうね。
仮にすべての
>この現世において「自己愛」を宿していない人間はいない。
どれもが自分(個を超えた自分)の為にやっている事。
他人を救いたい、自分を犠牲にしたい。
その衝動の根底には必ず納得できる自分があるのですね。(合ってるかな?)
アタシも「一人でも多くの方に幸せになってもらいたいと願う一人です」ってお話ししましたが・・・
これも また「自己愛」というんだろうなぁって思った次第です( *´艸`)
まったくもってそのとおりです!
「自己愛」というと、
こういった分野に興味がない方からすると、
個人としての「利己」と同じ意味に聞こえてしまうと思うので、
もっと他にいい言い方はないものかと思うのですが、
なかなか難しい問題です^^;
他人もまた自分ていうことが納得できないと、
「え?あんたなに言ってるの?」っていう話ですもんね。
2019/03/08 20:28 by 友資 URL 編集
もう大丈夫です♪
お気遣いありがとうございます(*^^*)
「隣人を自分のことのように愛せ」
たった一行の言葉ですが、とても難しいですね
あくまでアタシの解釈ですが、自分の子供に対しては無償の愛を注ぐ事ができます。アタシは出来ていると自分で思っています。
けれど 自分以外の全ての人にと考えると、とても難しい事だなぁって思いました。
この現世において「自己愛」を宿していない人間はいない。
どれもが自分(個を超えた自分)の為にやっている事。
他人を救いたい、自分を犠牲にしたい。
その衝動の根底には必ず納得できる自分があるのですね。(合ってるかな?)
アタシも「一人でも多くの方に幸せになってもらいたいと願う一人です」ってお話ししましたが・・・
これも また「自己愛」というんだろうなぁって思った次第です( *´艸`)
自己愛=母性
実はたった1つの「命」で目に映るもの全てが自分自身でしたね♪
覚えましたよ(笑)
アタシはこの言葉が大好きです♪
2019/03/08 13:48 by なおたん URL 編集