2018/08/29
「人も世界も循環する」 縄文的アースフルネス
本日もお越しいただき
ありがとうございます
ぼくら現代人は
あたりまえのように
「ゴミ」を生み出し
「ゴミ」を捨て
始末することに
日々
追われ続けていますが
縄文時代の人々には
そもそも
「ゴミ」という概念が
なかったと
いわれています
使えなくなったもの
不要になったもの
役目を終えたものは
森(神)に還すものであり
人も
自然も
すべては輪を描くように
循環するという
世界観や人生観が
息づいていたことが
縄文人の末裔といわれている
アイヌの文化からも
見えてくるというんですね
縄文人は
おおむね
「屈葬」という
膝を抱えるような
体位にする形で
死者を
弔っていたそうなのですが
ここにこそ
縄文とアイヌの
思想哲学を
垣間見ることができます
そうです
誕生のときを待つ
お腹の中の赤ちゃんが
膝を抱えているように──
縄文人にとって
「死」という「終わり」は
同時に
「生」への「始まり」でもあった
かもしれないのです
確かに
この世界
この宇宙は
「循環」に
みちみちています
アースフルなビジョンで
この世界を
照らすなら
星々の円運動のごとく
この宇宙
この世界には
循環していないものなど
ひとつもないことが
見えてくることになります

出典:phys.org
日々
決して長くはない
余生を生きる
様々な高齢者と
接していると
彼ら彼女らが
大人から少年少女
少年少女から幼児期
幼児期から乳児
そして胎内へと──
還っていく
プロセスにあるのを
見逃すことができません
理性や
自意識の
筋力が
衰えれば
衰えるほどに
記憶や
想起の筋力が
衰えれば
衰えるほどに
その姿は
肉体的な衰えを
省いたなら
さながら
子供の姿
そのものです
子供は
子供であるほどに
「自」と「他」の
境目がなく
「過去」という
経験則が少ない
限りなく透明に近い
存在ですよね
ゆえに
「現在」と「過去」を
結びつける
「角」や「面」の
材料が少なく
「未来」に対するビジョンも
明確ではなく
「いま」目の前で起きている
その連続が
世界のすべて
だったりします
幼少期の記憶が
ほとんどない人が
多い理由も
こんなところに
ありそうです
そんなふうにして
子供は
肉体の成長や経験
自意識や理性の
芽生えとともに
「過去」「未来」の側に
認識される世界の比重が
傾いていくことになりますが
施設の
高齢者の方たちの
共通するひとつの特徴として
「同じ話を
何度もする」
「毎日
同じ行動パターンを
くりかえす」
というものがありますが
これが
脳の神経細胞の
変性や脱落により
「認知症」の領域に
踏み込むところまで
重症化してくると
過去の記憶の断片が
「過去」として
認識されるのではなく
「現状」として認識されるため
たとえば90歳の人が
自分を50歳と思い込み
すでに亡くなっている両親を
自分よりも若い姿で
生存していると思い込み
自分が帰らないので
心配している
などという思い込みが
発生することになります
そんな
「思い込みの過去」の
延長で発生する
「未来」もまた
「思い込みの未来」であることは
疑いの余地がありません
息子や娘の顔すらも
わからなくなっていくことも
ある意味
「自」と「他」の
境目が曖昧な
乳児期への回帰です
つまり
人は
「いま」を生きる
乳幼児期を経て
「過去」と「未来」の
二元性に
いろどられた
この世界を旅し
やがては
「いま」を生きる
老年期末を経由し
胎内へと還ってゆく──
ということが
言えそうなのです
もちろん
ここでいう「胎内」とは
縄文でいうところの
森であり
神です
そのことを
理解しているだけでも
高齢になった家族が
息子や娘の顔も
わからなくなってしまったり
時系列を無視した
むちゃくちゃな発言を
始めてしまった
そんなときも
落ち着いた対処が
できるかもしれません
ちなみに
縄文時代について
平均寿命14.6歳という
信じがたい推計が
あるようなのですが
仮にもし
そのことが真実なら
ぼくたち現代人は
肉体的
精神的
「老い(乳幼児期への回帰)」
「不自由」という
非常に難易度が高い
人生プロセスを
体験することができる
稀有な時代を
生きていると
言えるのかもしれません
今日も
ありがとうございました

息子の友人のインコを預かることになり
興味しんしんのぺこちゃん

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ぼくら現代人は
あたりまえのように
「ゴミ」を生み出し
「ゴミ」を捨て
始末することに
日々
追われ続けていますが
縄文時代の人々には
そもそも
「ゴミ」という概念が
なかったと
いわれています
使えなくなったもの
不要になったもの
役目を終えたものは
森(神)に還すものであり
人も
自然も
すべては輪を描くように
循環するという
世界観や人生観が
息づいていたことが
縄文人の末裔といわれている
アイヌの文化からも
見えてくるというんですね
縄文人は
おおむね
「屈葬」という
膝を抱えるような
体位にする形で
死者を
弔っていたそうなのですが
ここにこそ
縄文とアイヌの
思想哲学を
垣間見ることができます
そうです
誕生のときを待つ
お腹の中の赤ちゃんが
膝を抱えているように──
縄文人にとって
「死」という「終わり」は
同時に
「生」への「始まり」でもあった
かもしれないのです
確かに
この世界
この宇宙は
「循環」に
みちみちています
アースフルなビジョンで
この世界を
照らすなら
星々の円運動のごとく
この宇宙
この世界には
循環していないものなど
ひとつもないことが
見えてくることになります

出典:phys.org
日々
決して長くはない
余生を生きる
様々な高齢者と
接していると
彼ら彼女らが
大人から少年少女
少年少女から幼児期
幼児期から乳児
そして胎内へと──
還っていく
プロセスにあるのを
見逃すことができません
理性や
自意識の
筋力が
衰えれば
衰えるほどに
記憶や
想起の筋力が
衰えれば
衰えるほどに
その姿は
肉体的な衰えを
省いたなら
さながら
子供の姿
そのものです
子供は
子供であるほどに
「自」と「他」の
境目がなく
「過去」という
経験則が少ない
限りなく透明に近い
存在ですよね
ゆえに
「現在」と「過去」を
結びつける
「角」や「面」の
材料が少なく
「未来」に対するビジョンも
明確ではなく
「いま」目の前で起きている
その連続が
世界のすべて
だったりします
幼少期の記憶が
ほとんどない人が
多い理由も
こんなところに
ありそうです
そんなふうにして
子供は
肉体の成長や経験
自意識や理性の
芽生えとともに
「過去」「未来」の側に
認識される世界の比重が
傾いていくことになりますが
施設の
高齢者の方たちの
共通するひとつの特徴として
「同じ話を
何度もする」
「毎日
同じ行動パターンを
くりかえす」
というものがありますが
これが
脳の神経細胞の
変性や脱落により
「認知症」の領域に
踏み込むところまで
重症化してくると
過去の記憶の断片が
「過去」として
認識されるのではなく
「現状」として認識されるため
たとえば90歳の人が
自分を50歳と思い込み
すでに亡くなっている両親を
自分よりも若い姿で
生存していると思い込み
自分が帰らないので
心配している
などという思い込みが
発生することになります
そんな
「思い込みの過去」の
延長で発生する
「未来」もまた
「思い込みの未来」であることは
疑いの余地がありません
息子や娘の顔すらも
わからなくなっていくことも
ある意味
「自」と「他」の
境目が曖昧な
乳児期への回帰です
つまり
人は
「いま」を生きる
乳幼児期を経て
「過去」と「未来」の
二元性に
いろどられた
この世界を旅し
やがては
「いま」を生きる
老年期末を経由し
胎内へと還ってゆく──
ということが
言えそうなのです
もちろん
ここでいう「胎内」とは
縄文でいうところの
森であり
神です
そのことを
理解しているだけでも
高齢になった家族が
息子や娘の顔も
わからなくなってしまったり
時系列を無視した
むちゃくちゃな発言を
始めてしまった
そんなときも
落ち着いた対処が
できるかもしれません
ちなみに
縄文時代について
平均寿命14.6歳という
信じがたい推計が
あるようなのですが
仮にもし
そのことが真実なら
ぼくたち現代人は
肉体的
精神的
「老い(乳幼児期への回帰)」
「不自由」という
非常に難易度が高い
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