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ニーチェが歩んだスピノザとの「二人連れの孤独」

哲学に
興味がない方でも
一度は誰でも
耳にする
「神は死んだ」
「永劫回帰」
言葉でお馴染の
フリードリヒ・ニーチェもまた
「スピノザの神」を信じたアインシュタイン
の記事の
アインシュタイン同様
17世紀
オランダの哲学者
スピノザ
共鳴した一人なのですが
Nietzsche187a1_convert_20181127114937.jpg
出典:www.the-philosophy.com



ニーチェは
スピノザ萌えな
自身の想いを
友人のオーヴァーベクへの
手紙の中で
こんなふうに
熱烈に告白しました




僕はすっかりびっくりして
うっとりしているんだ!

僕には先駆者がいるのだ
なんという先駆者だろう!

僕はほとんどスピノザを知らなかった
僕がいま彼をもとめたというのは
ひとつの「本能的な行為」であったのだ

《中略》

むろん相違したところは大いにあるが
それはむしろ時代や文化の
または学術上の相違した点にあるのだ

つまりだね
高い高い山に登ったときのように
ときどき僕の息をつまらせたり
血を流させたりした
僕の孤独が
すくなくともいまは
二人連れの孤独なのだ

──ふしぎだね!




「ニーチェ全集」 書簡集 第1







ぼくは
ひとつは
この手紙の中の

むろん相違したところは大いにあるが
それはむしろ時代や文化の
または学術上の相違した点にあるのだ


という部分に
着目します




ニーチェのこの
時代を超えた
広いまなざしは
とても
「1」の世界的だなあって
思うんですね



どういうことかといいますと
スピノザにしろ
ニーチェにしろ
イエスにしろ
釈迦(ブッダ)にしろ
いかなる先人も
時代や文化の空気
その国のルールや
その地に根付いた
宗教観や人生観が
先にそこにあって

おのおの
その時代や文化に
則した手段や
届けたい対象者に
刺さる表現や構成を
模索しながら

その時代や文化
社会体制や
世間的様相を
かんがみながら
自分がその時点で
保持する
最善の手ふだを
選び出し
言葉や表現を
選んだ
はずだからです





仮に
上記の4人が
2018年の現代を
生きていたなら
その伝達手段は
youtubeだったかもしれませんし
SNSだったかもしれなくて
格式高い
イメージの4人ですが
選ぶ言葉だって
もっと砕けた
拍子抜けするようなもの
だったかもしれませんし
思想哲学も
まったく違ったものに
なっていたかもしれません




みんな
みんな
ケースバイケースで
たとえそれが
利己的なものだろうと
利他的なものだろうと
そのとき
そのときの
その人にとっての
最善と思える
選択の連鎖が
現在にまで
つながってきた
それが
人類史であり

ニーチェが提唱した
「永劫回帰」は
自らの
日々の
選択の連鎖を
全肯定することを
求めます





ただし
自発的な
「超人」としての覚醒と
強靭な自己肯定
とを
求めた
ニーチェに対し

「エチカ」における
スピノザは
自発的であることも
自己肯定も
自己否定も
いっさい
提唱しません





そして
ニーチェの言う
「二人連れの孤独」とは
ただならぬ
思い入れを
禁じえませんが

もはやそれは
春日太一さんが語る 時代劇ブロマンスに見る「愛」の本質
の記事における
椿三十郎(三船敏郎)
宿敵半兵衛(仲代達也)
斬りあいのような
肉体的交わりなき
まぐわい
と言っても
過言ではない
濃密なブロマンスを
思い起こさせます




孤独に
さいなまれ
苦しい思いを
されている方は
ニーチェのように
誰より近くに感じれる
同じ孤独を抱える
誰かと
二人連れの孤独を
歩む
こともまた
ひとつの答えかもしれません





ですが
スピノザの研究者で
大阪大学の
上野修教授
二人の「孤独」には
決定的な違いがある
ことを
こんなふうに述べます
※()はぼくが付け足しました



ニーチェは「神の死」を
引き受けようとして
孤独だったのに対し
スピノザは彼の神とともにいた。

誰の手も煩わせずに
いわば(自分一人で)勝手に
救われていたのである。

上野修著
「スピノザの世界」





晩年
ニーチェが発狂した
その真相は
諸説ありますが
ニーチェは
「スピノザの神(「1」の世界)」の
核心部分
には
共鳴することができず
結局のところ
「一人連れの孤独」
最期のときまで
歩みつづけたのかもしれません





今日も
ありがとうございました





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コメント

ひまわりさん

ひまわりさんこんにちは。

いやあ、ほんとそうなんですよね。

ひまわりさんの心中はぼくにもよくわかります。
ぼくも目覚めの全能感の反動で、ある種のニヒリズムのような感覚に陥っていた時期があります。

そこを乗り越えて、
平行線を平行線のまま、認めていく手だてを探る面白さという、現在のブログがある感じですね。

こんばんは

このブログがということではなく、あくまで神という言葉を使う場合の定義が不明瞭な場合が多いなと感じていたということです。

つまり神を論じているのに双方が違った神を見ているという意味です。

これでは話が平行線なのは仕方がないよね~って感じです。

ひまわりさん

こんにちは。
いつもありがとうございます。

ほんとそうなんですよね。
ひまわりさんが仰るとおりです。

だからこその、人間の多角性の受容や理解を深める「7ビジョン」なのです。
どのビジョンを見ている人かによって、
神の定義がまったく変わってしまうんですね。

0の世界から見れば「神」は名前なんて付けれないものです。
けれども何か名前を付けないと他者と共有したり伝達できないので、仕方なく0の世界を感受した先人たちは、「道」とか「仏」とか「空」とか「イデア」とか、いろんな呼び方でそれを示しました。

「神」という言葉もその中のひとつにすぎず、
おそらくは旧訳新訳、コーランが台頭し、世界を席巻した時代の流れで、数ある中の代表として「神」という言葉が日本にも定着しただけのことで、
結局のところどれも「同じもの」のことを言ってるのです。

究極的にはそうなのですが、
2の世界を見ている人にとって、
神は人格化したり対象化することが可能な存在です。
たとえそれが誤りだとしても。


このブログは、
神の定義はその人のビジョンの在り方によって違う、ということを主旨としたブログとして記事を書いてきたつもりでいましたが、
神の定義なしに論じている、とひまわりさんが感じてしまったことは、ぼくの力不足ですね泣

こんばんは

ブログ記事の内容にあまり関係ないかもしれないので恐縮ですが、

いつも疑問に思うのですけど、「神」って何ですかね?

なんか私にはそれぞれの神の定義が異なっていて、それが交わらない道のように、焦点の合わないレンズのような議論をしているようにしか見えないのです。

「神」という言葉でくくるのがそもそもの間違いなような気がするのですけどね。

もちろん、旧約と新訳、コーランの神は一緒なのだろうけど、スピノザの語ろうとしたのは「神」ではない「真理、原理、絶対的現象」だろうし、ブッタもまた然り。

なんか「神」の定義なしに神を論じているようで私には一向に腑に落ちないのですよね。

もっとも、スピノザの時代には主以外に神(絶対的存在)はないということだったのだろうけど、今はぜんぜん違いますからね。

なんか私がピント外れなのかしらん?
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