2018/10/10
「信じる力」は使用上の注意をよく読み、用法・容量を守って正しくお使いください 後編
本日もお越しいただき
ありがとうございます
昨日の記事
「信じる力」は使用上の注意をよく読み、
用法・容量を守って正しくお使いください 前編の
続きです
人は
「信じた」
その瞬間から
信じたものを
無条件に受け入れ
信じたものに対し
「考える」という作業を
停止させる
生きものです
(それがいいかわるいかは
ひとます置いておいて)
そして
新たな疑念や気づきの
隙間が生まれたとき
いったんは
信じたものに対し
「考える(あるいは疑う)」という作業が
再稼働され
そんなときに人は
なんらかの「気づき」を得て
視点の更新(アップデート)が
自動的に成される
わけですが
「信じる」の
防壁が
ぶ厚く
頑強であれば
あるほどに
「考える」の
再稼働レバーは
核爆弾でも
動くことはありません
この
あまりに頑強な
「信じる」が
オウム真理教に
代表されるような
信仰的悲劇を生み出し
金銭的トラブルや
いろごとのトラブル
小さな争いから
国家間の争いまで
あらゆる「裏切り」を
生み出してきた
言ってみれば
人間同士の
「平和」や「協和」を
阻害する
深刻な
トラブルメーカーです
何を隠そう
「信じていないもの」に対し
「裏切り」を
認識することは
どう足掻いても
できないことで
「裏切り」の
生みの親は
いつなんどきも
「信じる」でしかなくて──
とはいえ
人間は
「信じる」なくして
この「2」の世界を
生きることが
できない生きものです
朝目覚めた
目の前に広がる
その空間が
本当に
自分の部屋なのか
本当に
自分の家なのか
目の前にある
歯ブラシは
本当に
歯ブラシなのか
歯ブラシに擬態化した
爬虫類ではないのか
時計の針は
8時を示しているが
本当に時間は
8時で間違いないのか
そもそも
時間なんてものが
存在しうるのか
といった具合に
何から何まで
四六時中
疑い続けながら
生きていたら
通常の生活が
まったく成り立たないことが
おわかりいただけるかと
思います
ぼくら人間は
数歩歩いては
立ち止まって
考え込むことがないよう
必要最低限の
「信じる」を
無自覚に
オートマチックに
発動させながら
日々の生活を
いとなんでいるわけです
では
ブッダが言う
「信じることなかれ」とは
いったい
何を意味するのか?
ブッダはなにも
じづらどおりに
何もかも信じるなと
言いたいわけではなく
ある種の「警告」のようなものを
発したのだと
ぼくは
受け止めております
人間は
弱い生き物ですから
自分のビジョンに
合致した意見や
自分のビジョンを
肯定してくれる見解や
自分にとって
得になる情報などを
耳にすると
よく考えもせずに
うのみにし
強くなった気になり
それに合致しない
考え方の人に対し
排他的になる
わるい癖があります
10箇条の
「信じることなかれ」
の行間には
「(安易に)信じることなかれ」
だったり
「(よく考えもせずに)信じることなかれ」
だったり
「(自分の目で確かめるまでは)
信じることなかれ」
といったような文言が
ひそんでいるのではないかと
そう思うわけです
これはまさに
このブログでいうところの
アースフルネス的
「結論を急がない姿勢」
そのものです
おそらくは
ブッダが生きていた頃とは
比較にならないくらいの
「情報の洪水」に
溺れかねないような
あるいは
「情報との同化」を
強いられるような社会を
ぼくらは
生きています
そんな
今だからこそ
カーラーマ経が
必要とされるときだと
ぼくは
考えるんですね
「信じる力」の
負の側面ばかりを
取り上げてきましたが
「信じる力」は
ときに
他のものでは
替えが利かない
ビッグサプライズを
もたらし
そうして
成し遂げられてきた
たくさんの奇跡が
この地球には
星くずのように
散りばめられています
過去の
あらゆる競技や
戦いにおける
感動的な
クライマックスや
奇跡的な
ドラマは
「信じる力」の先に
もたらされたものです
過去
しいたげられた人々を
よき方向に
導いた
数々の革命や
数々の開拓は
「信じる力」の先に
もたらされたものです
過去に
築かれてきた
数々の
ホンモノの友情や
ホンモノの愛情は
「こいつに裏切られるなら
本望だ」と
思えるくらいの
「裏切り」をも
いとわない
おそれない
「信じる力」の先に
もたらされたものです
だからこそ
人類最強でありながら
人類最凶の武器でもある
「諸刃の剣」は
いざというとき以外は
さやに収めておく
必要性があると
ブッダは
警告するわけです
映画「椿三十郎」においても
椿三十郎を演じる
三船敏郎が
クライマックスに
こう言います
「本当にいい刀は
さやに納まってる」

さやの
役割を
果たしてくれるものが
カーラーマ経の
「信じる」を
安売りしない姿勢です
他者は
もちろんのこと
自分自身に対しても
致命傷を
負わせることがないよう
みなさんは
今こそ
抜くべきとき!
という
最善のタイミングで
「信じる力」を
抜きだし
自らの手で
自らの人生を
切り開いてくださいね
ぼく自身もまた
刀をさやに
納めていられる人間でありたいと
この記事を書いていて
決意を
新たにしましたよ

今日も
ありがとうございました

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昨日の記事
「信じる力」は使用上の注意をよく読み、
用法・容量を守って正しくお使いください 前編の
続きです
人は
「信じた」
その瞬間から
信じたものを
無条件に受け入れ
信じたものに対し
「考える」という作業を
停止させる
生きものです
(それがいいかわるいかは
ひとます置いておいて)
そして
新たな疑念や気づきの
隙間が生まれたとき
いったんは
信じたものに対し
「考える(あるいは疑う)」という作業が
再稼働され
そんなときに人は
なんらかの「気づき」を得て
視点の更新(アップデート)が
自動的に成される
わけですが
「信じる」の
防壁が
ぶ厚く
頑強であれば
あるほどに
「考える」の
再稼働レバーは
核爆弾でも
動くことはありません
この
あまりに頑強な
「信じる」が
オウム真理教に
代表されるような
信仰的悲劇を生み出し
金銭的トラブルや
いろごとのトラブル
小さな争いから
国家間の争いまで
あらゆる「裏切り」を
生み出してきた
言ってみれば
人間同士の
「平和」や「協和」を
阻害する
深刻な
トラブルメーカーです
何を隠そう
「信じていないもの」に対し
「裏切り」を
認識することは
どう足掻いても
できないことで
「裏切り」の
生みの親は
いつなんどきも
「信じる」でしかなくて──
とはいえ
人間は
「信じる」なくして
この「2」の世界を
生きることが
できない生きものです
朝目覚めた
目の前に広がる
その空間が
本当に
自分の部屋なのか
本当に
自分の家なのか
目の前にある
歯ブラシは
本当に
歯ブラシなのか
歯ブラシに擬態化した
爬虫類ではないのか
時計の針は
8時を示しているが
本当に時間は
8時で間違いないのか
そもそも
時間なんてものが
存在しうるのか
といった具合に
何から何まで
四六時中
疑い続けながら
生きていたら
通常の生活が
まったく成り立たないことが
おわかりいただけるかと
思います
ぼくら人間は
数歩歩いては
立ち止まって
考え込むことがないよう
必要最低限の
「信じる」を
無自覚に
オートマチックに
発動させながら
日々の生活を
いとなんでいるわけです
では
ブッダが言う
「信じることなかれ」とは
いったい
何を意味するのか?
ブッダはなにも
じづらどおりに
何もかも信じるなと
言いたいわけではなく
ある種の「警告」のようなものを
発したのだと
ぼくは
受け止めております
人間は
弱い生き物ですから
自分のビジョンに
合致した意見や
自分のビジョンを
肯定してくれる見解や
自分にとって
得になる情報などを
耳にすると
よく考えもせずに
うのみにし
強くなった気になり
それに合致しない
考え方の人に対し
排他的になる
わるい癖があります
10箇条の
「信じることなかれ」
の行間には
「(安易に)信じることなかれ」
だったり
「(よく考えもせずに)信じることなかれ」
だったり
「(自分の目で確かめるまでは)
信じることなかれ」
といったような文言が
ひそんでいるのではないかと
そう思うわけです
これはまさに
このブログでいうところの
アースフルネス的
「結論を急がない姿勢」
そのものです
おそらくは
ブッダが生きていた頃とは
比較にならないくらいの
「情報の洪水」に
溺れかねないような
あるいは
「情報との同化」を
強いられるような社会を
ぼくらは
生きています
そんな
今だからこそ
カーラーマ経が
必要とされるときだと
ぼくは
考えるんですね
「信じる力」の
負の側面ばかりを
取り上げてきましたが
「信じる力」は
ときに
他のものでは
替えが利かない
ビッグサプライズを
もたらし
そうして
成し遂げられてきた
たくさんの奇跡が
この地球には
星くずのように
散りばめられています
過去の
あらゆる競技や
戦いにおける
感動的な
クライマックスや
奇跡的な
ドラマは
「信じる力」の先に
もたらされたものです
過去
しいたげられた人々を
よき方向に
導いた
数々の革命や
数々の開拓は
「信じる力」の先に
もたらされたものです
過去に
築かれてきた
数々の
ホンモノの友情や
ホンモノの愛情は
「こいつに裏切られるなら
本望だ」と
思えるくらいの
「裏切り」をも
いとわない
おそれない
「信じる力」の先に
もたらされたものです
だからこそ
人類最強でありながら
人類最凶の武器でもある
「諸刃の剣」は
いざというとき以外は
さやに収めておく
必要性があると
ブッダは
警告するわけです
映画「椿三十郎」においても
椿三十郎を演じる
三船敏郎が
クライマックスに
こう言います
「本当にいい刀は
さやに納まってる」

さやの
役割を
果たしてくれるものが
カーラーマ経の
「信じる」を
安売りしない姿勢です
他者は
もちろんのこと
自分自身に対しても
致命傷を
負わせることがないよう
みなさんは
今こそ
抜くべきとき!
という
最善のタイミングで
「信じる力」を
抜きだし
自らの手で
自らの人生を
切り開いてくださいね
ぼく自身もまた
刀をさやに
納めていられる人間でありたいと
この記事を書いていて
決意を
新たにしましたよ

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コメント
風子さん
次に書く記事のことを考えたりしていると(前触れもなくアイデアが降ってくるものですから)、
完全にそこに没入してしまい、
うっかりコメントへの返事を忘れることがよくあります泣
ぼくのブログは、
レスポンスをいただけることがとても少ないブログなので、
風子さんの反応だけでも確認できてうれしかったです^^
「バカの壁」なつかしいですね!
話題になった当初に軽く流し読みしただけだったので、
どんな内容だったかほとんど覚えていないのですが、
今回の記事に共通する内容でしたかね。
数ヶ月前に読んだ養老さんの「遺言。」という作品も、
養老さん的な視点にあふれた興味深い作品でした。
ペットのことでわざわざ連投までしてくださって、
いつも本当にありがとうございます。
2018/10/11 14:22 by 友資 URL 編集
な~るほど ! the “信じる力”
解剖学者の養老孟子さんは、
人のあまりに頑強な「信じる」部分を、
“バカの壁”と表現して出版しました。(笑)
2018/10/10 17:20 by 風子 URL 編集