2018/10/01
「自己愛」すべての人間に生えた見えない翼 ~⦅P7ビジョン⦆~
10月もお越しいただき
ありがとうございます
台風24号が
うちにも
全国的にも
多大な爪痕を
残していきました
そんな
台風一過の
今日ですが
ぼくの言葉の
主軸ともなっている
「自己愛」についての
お話です
どんな映画や
物語にも
必ずや
なにかしらのテーマや
方向性や
メッセージ性が
「主柱」として
その「作品全体」を
支えているように
この宇宙
この世界もまた
一貫された
主柱を背景に
すべての現象が
成されていると
ぼくは
「0」の世界のビジョン
⦅P7⦆のビジョンから
感受しました
その
「名もなき主柱」
となるものに
あえて
言葉を
添えるなら
「自己愛」と
現時点では
呼ぶしかありません
この世界において
「自己愛」を
宿していない
人間は
一人もなく
「自己愛」を
宿していない
動植物もなく
いかなる生命体も
まず初めに
「自己愛」を経由せずして
世界と交わること
いかなる行為をすることも
決してできません
どんなに
他人のために
献身的に
尽くした人物も
自己犠牲を省みず
身を盾にして
何かを守ろうと
つとめた人物も
実はどれもが
「自分のために
やっていること」
なんですね
すべての
利他的な行動は
(利己的な行動も同じく)
まず始めに
「自己愛」の衝動を
経由してのち
行動(思考や運動)へと
移行することができます
他人を
救いたい
自分を
犠牲にしたいと思う
その衝動の
根底には
必ずや
そうすることによって
納得できる自分
救われる自分という
根源が
横たわり
すべての利他は
そこから湧きあがった
衝動からの
利他なのです
「自死」や
「自傷」も
同じです
だらけて
ぼーっとして
無駄に時間を
過ごすことも
我慢できずに
暴飲暴食や
性的快楽に
走ることも
たとえ
その選択が
無自覚で
短絡的で
誰が見ても
悪い結果でしかない
選択にしか
見えないとしても
「今よりよくなりたい」
あるいは
「今より楽になりたい」
という
「自己愛」を
経由したからこその
「選択」なのです
ぼくが
つねづね
ブログを書くことが
「自分のためであり
他者のためでもある」
というニュアンスのことを
くり返し書く理由は
ここにあります
この世界は
「自分のために」を
経由せずして
他者のために
何かをすることが
できない(ようにできている)
世界なのです
ブッダ(釈迦)やイエスに代表される
利他的に
立派に生きたとされる
過去のすべての
偉人たちもまた
自己を
愛さずにはいられない
あらがえない衝動と
その人の人間個性や
経験や価値観とが
化学反応を起こした
その結果としての
利他的行動が
そこにはありました
利他的人間にとって
利他的行動が
自分を救う
最善の道なのです
ブッダやイエスが
他の利他的な人々と
ちがうところが
あるとすれば
「そのこと(自分のためにやっていること)を
自覚していた」という
この一点に
尽きます
人間は
もちろんのこと
動植物も
昆虫も
微生物も
ウイルスさえも
この世界に
「わるくなるため」に
生まれて来る生命体など
ひとつもありません
仮に
「わるくなるため」に
生まれてくる生命体が
存在するとすれば
その生命体は
生まれた瞬間に
真っ先に
自分に刃を向け
身体を痛めつけ
ひたすらに
死への方向性に
向かうだけの選択肢を
進んでいくことになります
それでは
生命が存在すること
命のバトンリレーが
行われること
そのものが
そもそも
起こりえないんですね
いかなる生命体も
言い知れぬ「衝動」に
突き動かされながら
ただただ
日々を生きていて
その衝動(自己愛)の
方向性のままに
たとえそれが
間違った選択だとしても
毎秒毎秒
瞬間瞬間に
そのときそのときの
自分にとっての
「最善」を
選択し続けている
この
「不動」の
「自己愛」は
「愛する」「愛さない」
「好き」「嫌い」
といった
この世界の
二元性や
時間軸を
超越します
「この世界
この宇宙が
愛である」
とは
スピリチュアル界隈の
常套句のひとつですが
ぼくが本日
書いたことに
照らし合わせるなら
あながちそれも
間違いではないとも
言うことができます
ですが
利益優先で
語られる「愛」とは
二元性のなかの
「愛する」「愛さない」レベルの
吹けば飛ぶ「愛」にすぎず
二元性を
超えない「愛」は
諸行無常の
気まぐれに
もてあそばれる
永遠にはほど遠い
使い捨て(幻想)の「愛」
なので
もう少しその
使い古された「愛」に
いまこそ
厳密さを加え
「この世界
この宇宙は
(二元性を超えた)
自己愛である」と
本日は
言いきってみたいと
思います
仮にその
「自己愛」を
「神」と呼ぶのなら
「神」による
「神」自身への
マッチポンプな
自己愛
それが
リアリティを持って
現出したものが
ぼくたち人間であり
すべての生命体であり
この世界
この宇宙
であると
言えるのかもしれません
この理解が
強靭な「自己肯定」となり
あなたに定められし
「縁起の道ゆき」に
降りかかる
逆境のうねりに
吞みこまれることなく
順境の輝きに
頼む必要なのない
自己愛の
底力を
埋火のように
ともしてくれることを
祈っております
今日も
ありがとうございました
明日は
代表的な
「自己愛」の伝道者と
ぼくが考える
この人物について
お話する予定です

出典:knowhy.bookofmormoncentral.org

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ありがとうございます
台風24号が
うちにも
全国的にも
多大な爪痕を
残していきました
そんな
台風一過の
今日ですが
ぼくの言葉の
主軸ともなっている
「自己愛」についての
お話です
どんな映画や
物語にも
必ずや
なにかしらのテーマや
方向性や
メッセージ性が
「主柱」として
その「作品全体」を
支えているように
この宇宙
この世界もまた
一貫された
主柱を背景に
すべての現象が
成されていると
ぼくは
「0」の世界のビジョン
⦅P7⦆のビジョンから
感受しました
その
「名もなき主柱」
となるものに
あえて
言葉を
添えるなら
「自己愛」と
現時点では
呼ぶしかありません
この世界において
「自己愛」を
宿していない
人間は
一人もなく
「自己愛」を
宿していない
動植物もなく
いかなる生命体も
まず初めに
「自己愛」を経由せずして
世界と交わること
いかなる行為をすることも
決してできません
どんなに
他人のために
献身的に
尽くした人物も
自己犠牲を省みず
身を盾にして
何かを守ろうと
つとめた人物も
実はどれもが
「自分のために
やっていること」
なんですね
すべての
利他的な行動は
(利己的な行動も同じく)
まず始めに
「自己愛」の衝動を
経由してのち
行動(思考や運動)へと
移行することができます
他人を
救いたい
自分を
犠牲にしたいと思う
その衝動の
根底には
必ずや
そうすることによって
納得できる自分
救われる自分という
根源が
横たわり
すべての利他は
そこから湧きあがった
衝動からの
利他なのです
「自死」や
「自傷」も
同じです
だらけて
ぼーっとして
無駄に時間を
過ごすことも
我慢できずに
暴飲暴食や
性的快楽に
走ることも
たとえ
その選択が
無自覚で
短絡的で
誰が見ても
悪い結果でしかない
選択にしか
見えないとしても
「今よりよくなりたい」
あるいは
「今より楽になりたい」
という
「自己愛」を
経由したからこその
「選択」なのです
ぼくが
つねづね
ブログを書くことが
「自分のためであり
他者のためでもある」
というニュアンスのことを
くり返し書く理由は
ここにあります
この世界は
「自分のために」を
経由せずして
他者のために
何かをすることが
できない(ようにできている)
世界なのです
ブッダ(釈迦)やイエスに代表される
利他的に
立派に生きたとされる
過去のすべての
偉人たちもまた
自己を
愛さずにはいられない
あらがえない衝動と
その人の人間個性や
経験や価値観とが
化学反応を起こした
その結果としての
利他的行動が
そこにはありました
利他的人間にとって
利他的行動が
自分を救う
最善の道なのです
ブッダやイエスが
他の利他的な人々と
ちがうところが
あるとすれば
「そのこと(自分のためにやっていること)を
自覚していた」という
この一点に
尽きます
人間は
もちろんのこと
動植物も
昆虫も
微生物も
ウイルスさえも
この世界に
「わるくなるため」に
生まれて来る生命体など
ひとつもありません
仮に
「わるくなるため」に
生まれてくる生命体が
存在するとすれば
その生命体は
生まれた瞬間に
真っ先に
自分に刃を向け
身体を痛めつけ
ひたすらに
死への方向性に
向かうだけの選択肢を
進んでいくことになります
それでは
生命が存在すること
命のバトンリレーが
行われること
そのものが
そもそも
起こりえないんですね
いかなる生命体も
言い知れぬ「衝動」に
突き動かされながら
ただただ
日々を生きていて
その衝動(自己愛)の
方向性のままに
たとえそれが
間違った選択だとしても
毎秒毎秒
瞬間瞬間に
そのときそのときの
自分にとっての
「最善」を
選択し続けている
この
「不動」の
「自己愛」は
「愛する」「愛さない」
「好き」「嫌い」
といった
この世界の
二元性や
時間軸を
超越します
「この世界
この宇宙が
愛である」
とは
スピリチュアル界隈の
常套句のひとつですが
ぼくが本日
書いたことに
照らし合わせるなら
あながちそれも
間違いではないとも
言うことができます
ですが
利益優先で
語られる「愛」とは
二元性のなかの
「愛する」「愛さない」レベルの
吹けば飛ぶ「愛」にすぎず
二元性を
超えない「愛」は
諸行無常の
気まぐれに
もてあそばれる
永遠にはほど遠い
使い捨て(幻想)の「愛」
なので
もう少しその
使い古された「愛」に
いまこそ
厳密さを加え
「この世界
この宇宙は
(二元性を超えた)
自己愛である」と
本日は
言いきってみたいと
思います
仮にその
「自己愛」を
「神」と呼ぶのなら
「神」による
「神」自身への
マッチポンプな
自己愛
それが
リアリティを持って
現出したものが
ぼくたち人間であり
すべての生命体であり
この世界
この宇宙
であると
言えるのかもしれません
この理解が
強靭な「自己肯定」となり
あなたに定められし
「縁起の道ゆき」に
降りかかる
逆境のうねりに
吞みこまれることなく
順境の輝きに
頼む必要なのない
自己愛の
底力を
埋火のように
ともしてくれることを
祈っております
今日も
ありがとうございました
明日は
代表的な
「自己愛」の伝道者と
ぼくが考える
この人物について
お話する予定です

出典:knowhy.bookofmormoncentral.org
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コメント
ひまわりさん
ピラミッド状だと、世界の根源的な部分を表す「円」の形に反すると思ったんですよね。
あと、もしかしたらヒエラルキー的な誤解も生みそうですよね。
それと、次の段階のビジョンは、前の世界のビジョンも内包するという意味で、
このような形を選びました。
聞くところによると、
ぼくが書いてるようなことに最近興味を持ち始めた方とのことなので、
ある程度の知識のストックの不足も、難しくさせてしまった要因かもしれませんね。
2018/10/02 22:08 by 友資 URL 編集
えびはんさん
意味が違うということが伝わっただけでも、
ぼくには大きな収穫です。
いつもありがとうございます。
2018/10/02 21:57 by 友資 URL 編集
こんばんは
ピラミッド状の方が数として分かり易いけど、世界観としては不足だし、なかなか難しいですね。
ビジョン図は曼荼羅図を連想してしまいます。曼荼羅図に描かれた世界観にしても時代、作者によって様々ですからね。
2018/10/02 19:09 by ひまわり URL 編集
ひまわりさん
「自己愛」に限らずですが、
過去にやってたブログから現在にいたるまで、理解してもらえた実感を得られた経験は、とても少ないです。
自明であれば自明であることほど、伝えることが難しいと、つねづね思いますね。
抽象力を要する事柄は、特に。
別なルートからメッセージをくださった方は、「7」ビジョンの図が難解すぎるという指摘もいただきました。
垣根を壊すつもりで作った図が、
さらなる垣根を作ってしまったのです。
玄人のためのブログを目指していたわけではなかったので、
これはよくないなあ、と思いました。
まだまだ工夫の余地がありそうですね。
いつも、ありがとうございます。
2018/10/02 13:17 by 友資 URL 編集
No title
明日の記事も楽しみです♪
2018/10/02 12:45 by えびはん URL 編集
おはようございます。
必ず「自らのため」に帰結するという原理かなと。(私はこう思っています。)
ここでは自己愛と言いましょう。
この自己愛はなかなか理解されないみたいです。
過去何回かこのような話になった時があったのですが、理解されなかったですね。
この自己愛は(2次元的な)自己愛(=利己愛)とは違うのですけど、同一視されてしまいます。
「この世のすべてが自分の為にある」という言い換えもできるのですが、これも理解されないですしね。
2018/10/02 08:47 by ひまわり URL 編集