2018/10/26
「豊かな死に方」を考えることは「豊かな生き方」を考えること
本日もお越しいただき
ありがとうございます
昨日の記事
人は「真なる受容」を求めて旅する生きもの 映画「レスラー」は
映画評論家で
在米ジャーナリストでもある
町山智浩さんが
ツイッター上で
広げてくださったことをきっかけに
普段では考えられないような
反響があり
ありがたかったですね
宇多丸さんや
高橋ヨシキさん同様
今なお
その豊穣な映画評から
学ばせてもらっている
いちファンとしては
やっててよかったなあと
気持ちを新たにできた
うれしいできごとでした
つくづく
リアル人生ゲームは
何が起こるかわかりません
さて
今日の記事はというと
「死生観」について
高齢化社会の
現代にあって
日々
高齢者と接することを
くりかえしていると
多くの高齢者が
明確な死生観を
持つことがないまま
明確な思考能力が
うしなわれる年齢を
迎えている現実に
遭遇します
そうなってからだと
自分の生活は
もちろんのこと
死生観までをも
身内の者や
介護支援専門員(ケアマネージャー)などの
解釈や判断に
身をゆだねるしかない
状況となり
ある意味
それはもう
「自分の人生では
なくなってしまう」ことを
意味します
スウェーデンもまた
日本と同様に
高齢化社会が進んでいて
認知症患者も
多くいるようなのですが
病状管理の権限が
医師にある日本に対し
スウェーデンでは
介護士に
その大きな権限が
与えられていて
介護士によって
高齢者に
本当に必要な助けだけが
くみ取られる
システムが
確立しています

出典:www1.cbn.com
しかも
驚くべきことに
スウェーデンにおいて
介護士は
「公務員職」なのです
当然ながら
安定した収入を
得ることができますし
離職する人も
ほどんどいないかと
思われます
ぼくもまた
いち介護従事者ですが
日本の現状の
介護士の待遇との
雲泥の差には
驚きを隠せません
また
スウェーデンの高齢者は
子供などの親族と
一緒に暮らす
というケースが
ほとんどないそうなんですね
(それはそれで
ちょっぴりさびしいですが)
認知症の
高齢者でさえもが
一人暮らしをする方が
ほとんどで
高齢者の自宅を
介護士が巡回するか
あるいは
高齢者は
施設に入ることができて
その費用はすべて
国が負担してくれます
家族が
経済的負担を
強いられることはなく
「親の世話をするために
離職する」
というような問題も
起こるはずもありません
(スウェーデンの消費税率は
25%と高額なのですが
食料品や交通費は12%
書籍や新聞等などは6%と
軽減税率が
よく考えられて
できているようです)
スウェーデンの
施設では
とにもかくにも
本人の意思こそが
尊重されます
自由に
外に出ることもできますし
それで
事故に遭ったとしても
自己責任で
施設や
家族の監督責任が
問われることは
ないそうです
さらにスウェーデンでは
日本のような
「延命のための延命治療」という
不毛な延命治療は
施さない死生観が
しっかり根づいています
胃瘻(いろう)という
日本では一般的な
食べ物を
飲み込めなくなった人へ
直接胃に繋いだ
チューブから
栄養を送り込む
というような処置も
スウェーデンでは
当たり前にしないようです
なんと
スウェーデンで
胃瘻は
「老人虐待」に
あたるのです
なので
スウェーデンでは
延命のための延命による
「寝たきりの高齢者」が
おりません
国民が
一丸となって
介護する側も
される側も
寝たきりにならないよう
健康に配慮し
最善を尽くす
それでも
寝たきりになったら
それは
死を受け入れる時期が
来たのだと
いさぎよく受容する
そういう人生観や
死生観を
スウェーデン人は
持っているようなんですね
お年寄りの
誕生日に
「長生きしてくださいね」と
言葉をかけることは
いまだに
通例とされ
ぼくの勤める
事業所でも
同様のメッセージを
寄せ書きすることが
通例ですが
現時点で
自分の力で
明確に
考えることができる
世代の人々は
ぼくたちは「健康になるため」に生まれてきたのか?
の記事にも通ずる
「健康」という
自己メンテナンスを
日々
お世話になり
様々な体験を
もたらしてくれる
肉体に
丁寧に
ほどこしながらも
医療にまつわる
経済強者の
懐を肥やすだけの
「長生き」こそを
良しとする
「死生観」とはちがう
「長さ」ではない
「質」の死生観を
アースフルな
ビジョンでもって
育むときなのかもしれません
いさぎよい
豊かな死に方を
模索するということは
そのまま
いさぎよい
豊かな生き方を
模索することに
ほかなりませんからね
今日も
ありがとうございました

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ありがとうございます
昨日の記事
人は「真なる受容」を求めて旅する生きもの 映画「レスラー」は
映画評論家で
在米ジャーナリストでもある
町山智浩さんが
ツイッター上で
広げてくださったことをきっかけに
普段では考えられないような
反響があり
ありがたかったですね
宇多丸さんや
高橋ヨシキさん同様
今なお
その豊穣な映画評から
学ばせてもらっている
いちファンとしては
やっててよかったなあと
気持ちを新たにできた
うれしいできごとでした
つくづく
リアル人生ゲームは
何が起こるかわかりません
さて
今日の記事はというと
「死生観」について
高齢化社会の
現代にあって
日々
高齢者と接することを
くりかえしていると
多くの高齢者が
明確な死生観を
持つことがないまま
明確な思考能力が
うしなわれる年齢を
迎えている現実に
遭遇します
そうなってからだと
自分の生活は
もちろんのこと
死生観までをも
身内の者や
介護支援専門員(ケアマネージャー)などの
解釈や判断に
身をゆだねるしかない
状況となり
ある意味
それはもう
「自分の人生では
なくなってしまう」ことを
意味します
スウェーデンもまた
日本と同様に
高齢化社会が進んでいて
認知症患者も
多くいるようなのですが
病状管理の権限が
医師にある日本に対し
スウェーデンでは
介護士に
その大きな権限が
与えられていて
介護士によって
高齢者に
本当に必要な助けだけが
くみ取られる
システムが
確立しています

出典:www1.cbn.com
しかも
驚くべきことに
スウェーデンにおいて
介護士は
「公務員職」なのです
当然ながら
安定した収入を
得ることができますし
離職する人も
ほどんどいないかと
思われます
ぼくもまた
いち介護従事者ですが
日本の現状の
介護士の待遇との
雲泥の差には
驚きを隠せません
また
スウェーデンの高齢者は
子供などの親族と
一緒に暮らす
というケースが
ほとんどないそうなんですね
(それはそれで
ちょっぴりさびしいですが)
認知症の
高齢者でさえもが
一人暮らしをする方が
ほとんどで
高齢者の自宅を
介護士が巡回するか
あるいは
高齢者は
施設に入ることができて
その費用はすべて
国が負担してくれます
家族が
経済的負担を
強いられることはなく
「親の世話をするために
離職する」
というような問題も
起こるはずもありません
(スウェーデンの消費税率は
25%と高額なのですが
食料品や交通費は12%
書籍や新聞等などは6%と
軽減税率が
よく考えられて
できているようです)
スウェーデンの
施設では
とにもかくにも
本人の意思こそが
尊重されます
自由に
外に出ることもできますし
それで
事故に遭ったとしても
自己責任で
施設や
家族の監督責任が
問われることは
ないそうです
さらにスウェーデンでは
日本のような
「延命のための延命治療」という
不毛な延命治療は
施さない死生観が
しっかり根づいています
胃瘻(いろう)という
日本では一般的な
食べ物を
飲み込めなくなった人へ
直接胃に繋いだ
チューブから
栄養を送り込む
というような処置も
スウェーデンでは
当たり前にしないようです
なんと
スウェーデンで
胃瘻は
「老人虐待」に
あたるのです
なので
スウェーデンでは
延命のための延命による
「寝たきりの高齢者」が
おりません
国民が
一丸となって
介護する側も
される側も
寝たきりにならないよう
健康に配慮し
最善を尽くす
それでも
寝たきりになったら
それは
死を受け入れる時期が
来たのだと
いさぎよく受容する
そういう人生観や
死生観を
スウェーデン人は
持っているようなんですね
お年寄りの
誕生日に
「長生きしてくださいね」と
言葉をかけることは
いまだに
通例とされ
ぼくの勤める
事業所でも
同様のメッセージを
寄せ書きすることが
通例ですが
現時点で
自分の力で
明確に
考えることができる
世代の人々は
ぼくたちは「健康になるため」に生まれてきたのか?
の記事にも通ずる
「健康」という
自己メンテナンスを
日々
お世話になり
様々な体験を
もたらしてくれる
肉体に
丁寧に
ほどこしながらも
医療にまつわる
経済強者の
懐を肥やすだけの
「長生き」こそを
良しとする
「死生観」とはちがう
「長さ」ではない
「質」の死生観を
アースフルな
ビジョンでもって
育むときなのかもしれません
いさぎよい
豊かな死に方を
模索するということは
そのまま
いさぎよい
豊かな生き方を
模索することに
ほかなりませんからね
今日も
ありがとうございました
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