FC2ブログ

ありのままではいられない自分もまたありのままの自分

本日もお越しいただき
ありがとうございます




2019年に
続編が公開される予定の
「アナと雪の女王」
誰もが知る
名シーンに





背負わされた
負の宿命を
正に転回させた

雪の女王エルサ

「ありのままの
自分になるの」

「これでいいの」


歌い上げるシーンが
ありますが
frozen_elsa-2048x1536_810_500_75_s_c1_convert_20180929145246.jpg
出典:www.lifesitenews.com




この言葉を
「1」の世界の
ビジョン
を通して
読み解くなら
「ありのままの自分になる」
必要性は
最初からない

とも言えるんですね




なぜなら
ゆりかごから
墓場まで
すべての人が
例外なく
「ありのままの自分」
でしかない

からです




「ありのままでは
いられない自分」

「これでいいとは
思えない自分」
もまた
「ありのままの自分」

というわけですね





そのことに
気づいたエルサは

「この先
新たな自分を
発見しようとも
自分を
見失うことが
あろうとも
いかなる自分が
待ち受けていようとも
それすらもが
自分でしかない」


という意味を込めて
「ありのままの
自分になる」と
宣言したのかも?
しれません




今日も
ありがとうございました



IMG_20180915_130333_convert_20180929144833.jpg
「明日はまた30度超えるらしいぜ」
「マジかよ~」





人気ブログランキング
スポンサーサイト

ブッダだって石につまずいて転ぶ

ブッダ(釈迦)だって
石につまずいて
転ぶことも
あったと思うのです
ブッダつまずき_convert_20180928102732




ブッダだって
鼻息のとおりが悪くなり
ほじっていたら
血が出てしまったことも
あったと思うのです




ブッダだって
説法の決め台詞を
かんでしまったり

「ちょっと
なに言ってんのかわかんない」

サンドウィッチマン
富澤
さんばりの修行者に
突っ込まれることも
あったと思うのです
cd92c18ab53204ad375065c0a09ddebf_400.jpg
出典:bokete.jp





ブッダだって
大勢の人が
話を聞きに集まり
しんと静まり返るなか
ブッ!と
でかいのを
かましてしまったことが
あったと思うのです





ブッダだって
つい
女性の胸元や
お尻に
目が行ってしまい
これから
何を話そうとしていたのかを
忘れてしまったことが
あったと思うのです




ブッダだって
今日はおうちで
ゴロゴロしてたいなあ
説法面倒だなあ
と思ったことが
あったと思うのです




けれども
そういうブッダは
漂白され
キレイなところだけを
抽出され
神格化されていったもの





それが仏典であり
多くの人が
イメージする
ブッダです




かっこわるい自分や
悩みもだえる自分や
情けない自分と
日々向き合わされる
現代を生きる
ぼくたちが
敷居が高く
感じてしまっても
仕方ありませんよね




自分とは
縁がない存在に
思えても
仕方ありませんよね




ダメなブッダ
等身大のブッダにも
触れてみたい




急にそんな
くだらないことを思った

けれども
大事なことに思えた

ブッダを
「2」の世界のビジョンを通して
見つめてみた
ささやかな記事でした



今日も
ありがとうございました





人気ブログランキング

「0」の世界(悟りの世界)の解説 後編 ~アースフルネス「7」ビジョン

本日もお越しいただき
ありがとうございます


昨日の記事
「0」の世界(悟りの世界)の解説 前編
その続きです

この記事をもって
アースフルネス「7」ビジョンの
解説を
終えたいと思います


ここをクリック





とある
何人かの覚者が
覚醒体験について
「ある」と「ない」の
二元性を超えた
「絶対無」を
知覚した

というニュアンスのことを
語られていたことが
あったのですが





ぼくが
覚醒体験を経て
その
「絶対無」から
つかんだ断片
そこから得た解釈は
「絶対無」とは
少し違います





「絶対無」
完全無欠の
「無色透明」
なのではなく

いち人間の
肉体と精神による
知覚能力で
認識できる
その限界を超えてしまった
認識不可能な
領域だからこその
「絶対無」

であると
ぼくは認識したんですね




DVDプレーヤーでは
ブルーレイディスクが
読み込めないのと
同様に

「人間の肉体」という
主に
「2」の世界に
対応するように
作られた
その知覚形式
フォーマット
では
読み込みができない領域

というわけです




その領域から
つかんだ断片が
絶対的な
ニヒリズムだったり
空虚さだったり
絶望感だった
覚者は
ぼくが実際に
見たわけではありませんが
精神に異常をきたし
中には
自害する者もいた

聞いたことがあります





その
認識不可能なはずの
「絶対無」からの
断片の
ささやかな手ごたえを
⦅P7⦆のビジョンとして
あくまで
ぼくの主観体験として
語らせていただくなら




「それ」は
この世界の
すべてのビジョンに
通底し
なおかつ
この世界の
すべてのものの
実体であり
原動力でもあるもの

ぼくは
理解したんですね




だからこそ

この世界
この宇宙の
すべてのもの
すべての森羅万象が
自分自身を含めて
「神」ではないものは
存在しない

という
「1」の世界ビジョンの
「汎神」
に対し

この世界
この宇宙の
すべてのもの
すべての森羅万象が
「知覚不可能領域」を
実体とし
源泉とした
「汎在神」の認識

「0」の世界のビジョンに
書き記しました





その
「知覚不可能領域」から
つかんだ断片を
ぼくは
いま現在は
「自己愛」と表現します
(言葉の限界ですね)




世間一般的な
意味合いの
「自己愛」
とは
ちょっとだけ違います




この「自己愛」については
以下の記事をどうぞ

「自己愛」すべての人間に生えた見えない翼 
~⦅P7ビジョン⦆~





ところで
どうして
「悟り人」には

出家したり
山にこもるなどして
俗世間とは
関わらないタイプと

覚醒体験をもとに
ビジネス展開するタイプが
いたりするのか

疑問に思う方が
多くいるかと
思われます



それこそがまさに
図の右下に記した
どんなに上のビジョンに移行しても
先天的に肉体へ
プログラミングされた
「欲求」
「好き嫌い」
「得手不得手」
などの「2」の世界の
根本的個性は残る

と書き記した
その理由です




俗世間と
かかわらないことは
あらゆる欲望や
感情の起伏を
物理的に
遠ざけることを
意味します


肉体とこころを持った
人間としての
最大の「弱点」

なくそうとする
行為である

見ることができるんですね




それは
できうる限り
「1」もしくは
「0」のビジョンの中に
とどまっていたいという
「人間個性」としての
美意識
欲求や
好き嫌い
得手不得手の
現れ






いっぽう
ビジネス展開する
悟り人は
「人間個性」としての
美意識
欲求や
好き嫌い
得手不得手が
ビジネスや
生活手段と結びついた
ただそれだけのことで




どちらが
いいわけでも
わるいわけでもなく
おのおのが
先天的に宿し
二元性でつちかった
人間個性のままに
「縁」が導くままに
そうしただけのことです





ぼくもまた
欲求
好き嫌い
得手不得手
のままに
こんなブログを
書いたり
介護の仕事をしたり
爬虫類を愛でたり
お気に入りの音楽を聴いたり
家事をしたり
息子を叱ったり
ポテチを食べたり
感情の起伏という
二元性ならではの
循環サイクルを
味わいながら
「友資」という人間の
ひとつの物語を
最期まで
見届けようと
生きようとするでもなく
生きているだけのこと





個人的には
「悟り」
「覚者」
という
概念も
言葉も
そろそろ
死語になるべきときではないかと
そんなふうにも
思ったりします
(使っておいてなんですが笑)




そういう
いかにも崇高そうな
言葉のイメージが
宗教や
宗教的カリスマを
ムダに神格化し
ムダに敷居を高くしてしまうし
ムダに自分を
卑下する人間を
増やしてしまう
悪循環を
生み出している
そんな気がしてなりません






結局のところ
「覚醒体験」を
経たところで
豊富な視点を
持っている存在

というだけの話で
絵を描くのが得意な人や
走るのが得意な人 同様
「覚者」もまた
「多視点が得意」な人
すぎませんから





最後に
どうしてわざわざ
いろんな視点の人間が
創造されたのか?

について
ぼくのひとつの
推論を
述べさせてもらって
この記事を
終わりにしたいと思います





「2」の世界(因果の世界)の
解説
にて
ぼくは
「2」のビジョンの人々は
自転車に
たとえるなら
フレーム
タイヤ
ハンドルといった
主役的な役割を
になう人々だ

そんなことを
お話ししました




となると
「1」のビジョンの人々は
ブレーキか
ペダルか
チェーン

かもしれませんし

「0」のビジョンの人々は
ライトか
ベルか
スタンド

といったところ
かもしれません




ですが
これらのパーツの
どれが欠けても
完成された
一台の自転車として
成立させることは
できません





おのおのの
ビジョンに
おのおのの
役割があって
初めて
この世界は
一台の自転車として
前進することができて




お互いが担当する
パーツ(ビジョン)が
違うがゆえに
お互いに対する
無理解は生まれ
相手のパーツに対する
不満や
意見の相違や
あつれきは
避けられないのですが

ですが
そこをどう
K.U.F.U.(工夫)
していくかが
このリアル人生ゲームの
醍醐味であり
ときにこの世界が
ドラマチックでもあることの
ギミック(仕掛け)だとも
言えるんですね




そうして
自転車を
過ぎ去ってゆく景色
過ぎ去ってゆく体験は
おのおのの
ビジョンの人間に
おのおのの
ドラマと
学びと
成長と
人生の妙味を
もたらしてくれます




だからこそきっと
創造者は
人類を
いつの時代にも
おおよその
7つのビジョンの
人口比率が
保たれるように
「恒常性(ホメオスタシス)」を
この世界に
組み込んだのかもな

なんてことを
ぼくは
ひそかに思うのです
Black_convert_20180927002421.jpg
出典:www.aliexpress.com






そんな
あんばいで
アースフルネス「7」ビジョンの
解説を
終わりたいと思います





ここまで
読んでくださり
ありがとうございました

明日からは
「7」ビジョンを
羅針盤とした

以前までと同じ
アースフルな記事に
戻っていきます





人気ブログランキング

「0」の世界(悟りの世界)の解説 前編 ~アースフルネス「7」ビジョン

本日もお越しいただき
ありがとうございます



昨日の記事
「1」の世界(縁起の世界)の解説 後編
の続き

「0」の世界(悟りの世界)の
解説の「前編」
です
ここをクリック






「0」の世界の
ビジョンに関しては
「わかった!」
思えた人ほど
あるいは
その全能感に
酩酊してしまった人ほど
用心が必要だと
ぼくは考えます

ぼく自身も
体験直後
しばらくは
全能感と
陶酔感とで
いっぱいでした




「悟り系スピリチュアル」
(ぼくは
「0人称スピリチュアル」
とも呼びます)
と呼ばれる
ジャンルの人々は
「0」のビジョン(悟り)についての
ビジネス展開

行ったわけですが
詐欺師扱いされたり
怠け者扱いされたりと
いまだに
そのジャンルへの批判は
あとを絶ちませんし
ここ数年を境に
活躍されていた
ほとんどの人が
表舞台から
消えてしまいました




ぼくが
察するに
悟り系スピリチュアルが
大きくビジネス展開
されていくに連れ

「2」の世界を
「幻想」
「空っぽ」

言い表す声もまた
比例して
大きくなっていってしまい

インターネット時代の
情報拡散スピードも
手伝って
「2」の世界を
あまりに軽んじていると
受け止めた人々が
批判のうねりを
作り出していったのだと
解釈しています




なので
「0」の世界を
他者に伝えたい衝動を
止められない方は
批判を受ける
覚悟がある方だけ
孤立する
覚悟がある方だけ
そうすることを
お勧めします





いずれにしても
この世界は
この先も
「2」の世界ビジョンを
中心としてしか
まわっていくことはないので
「2」の世界への
惜しみないリスペクトを
忘れないことが
「2」の世界ビジョンの人との
無自覚なズレを埋め
入鄽垂手(にってんすいしゅ)の生き方に
導いてくれる

そんなふうに
ぼくは思います





それにしても
誰が考えたのかは
知りませんが
「ない」
「無」
「ゼロ」

という状態を
表す字づらとして
「0」という形
用いられ
表現されたことは
なんだかとても
象徴的です




この全宇宙が
まさに
円運動の
「循環」によって
構成されていて

円運動に
身を任せる
すべての
星々や
地球もまた
円(ゼロ)の形をしています




加えて
「円(0)」と
「縁(1であり2でもある)」とが
同じ読み方をし
なおかつ
それらのものが
実は
ゼロ(無)なんだよ
というところに
帰結する
この「円形のゼロ」というものは
深遠な
神秘でありながら
大爆笑を
発火させかねない
一撃必殺を
兼ね備えています






通常
「2」のビジョンの
認識
であれば
直線上の
端に「過去」
端に「未来」があって
人は
「過去」から
「未来」へと
進んでいるように
認識しています
無題_convert_20180926202814





ところが
「0」の世界では
「0」の字の形と
「0」の文字の意味と
二つの意味で
「過去」も
「未来」も
消え去ってしまう
んですね
無題1_convert_20180926202827





このとおり
まるのなかの
どこに「過去」を置き
どこに「未来」を置けと
いうのでしょうか





なるほど確かに
ぼくら人間は
いつなんどきでも
「現在」からしか
「過去」と「未来」に
アクセスすることが
できません

よって
「0」の中には
「現在だけがある」
認めればよいのか?




ところがその
「現在」
「いま」もまた
知覚
認識したその時点で
ときすでに遅しで

「いま」より
0コンマ何秒か遅れた
「過去」
をしか
ぼくら人間は
認識できないこと

思い知らされることに
なってしまいます




よって
「0」のビジョンにおいて
「時間」という概念は
「循環」するものであるのと同時に
「実体のないもの」
つまり
「幻想」なのです






「時間」に限りません
「0」の世界の
住人にとって
対義のペアの
タペストリーで
織りなされた
「2」の世界の
あらゆる概念の
境界線は
消えてなくなり
そして
「自分自身」すらもが
「実体なき幻想」

であることを
体感的に
自覚することになるのです




でもぼくは
たとえ幻想だとしても
「ある」と仮定しながら
生きる
ほうが
個人的には好みです
(動物や虫を
擬人化すると
面白くなることに
ちょっと似てますね)




ほんとに
どうにもならないとき
ピンチのとき
ここぞ!というときに
「ない」という必殺技は
発動させればよい

という考え方を
提案したいですね





2600年前
ブッダ(釈迦)
おそらくは
「0」ビジョンに近い
少数派の修行者
に向けて
「私はいない(行為者はいない)」
言い表し

初期仏教から
派生した
大乗仏教では
その幻想性を
「空(くう)」という一字で
言い表し

冒頭の
悟り系スピリチュアルなどは
それを
「非二元」
「ノンデュアリティ」

言い表しました




ビリヤードの球が
停止することなく
相互に影響しあいながら
オートマチックに
流動し
循環をくり返す
肉体の反応や
こころの動きという
幻想の様を
「自分」として
「体験」として
味わいながらも
一方で
川の流れを
眺めているかのように
他人ごとのように
見つめている
二元性を超えた
視点がある





どこか
マインドフルネスにも
通ずる
世界観ですが

それもそのはず
マインドフルネスだって
その「源流」は
「0」の世界にあります

行き着くところは
同じ「0」地点です





それが
⦅P6⦆ビジョンにおける
「2」と「1」の世界の幻想性の認識
「0」の世界(悟りの世界)の
ビジョン


起こることが
ただただ
起き続けているだけ

というような
身もふたもない
因果の認識なので
「運命」という概念もまた
意味をなさなくなってしまいます




それでは
この世界の
なにもかもが
「幻想」
「無」
「ゼロ」
なのだとしたら

確かに
これだけは
「ある!」と
言い切れる

そんなものは
どこにもないものなのでしょうか?





前編は
ここまでということで

後編
以下のタイトルを
クリックしてください

今日も
ありがとうございました


「0」の世界(悟りの世界)の解説 後編 ~アースフルネス「7」ビジョン




人気ブログランキング

「1」の世界(縁起の世界)の解説 後編 ~アースフルネス「7」ビジョン~

本日もお越しいただき
ありがとうございます


本日は
昨日の記事
「1」の世界(縁起の世界)の解説 前編
続き
「1」の世界(縁起の世界)の解説の
「後編」
です


ここをクリック






昨日は
ビリヤードにおける
球と球との
相互作用を
例にあげ

最初の
ひと突きが
起こった
その瞬間に──

台の中の
すべての球は
台の端にある球から
その反対側の
端にある球にまで
影響をおよぼし
また
どの球も
転がってきた
他の球から受ける
その影響を
決して
避けることができません




「空間」もまた
球ですし
「こころ」もまた
肉体を超えて
他の球から
ぶつかられたり
ぶつかったりを
くりかえす




それならば
「一個の球の動き」
「一人の人間の行動」

決定づけているものとは
いったい
なんだと言えるのか?


というようなところまで
お話しました





この相互作用を
ふまえて

目の前の
パソコンや
スマートフォンが
作られた
その理由を
おおざっぱに
ズームインされたビジョン
読み解くなら
人間社会の
文明の発達とともに
インターネットや
デジタル技術が
発明され
それが進化してきたから
というようなことが
ひとつの理由として
あげられますが




そこから
グーグルアースのごとく
ゆっくりと
ゆっくりと
ズームアウトしていくと──

その前の
アナログ技術だった頃

電気が実用化された頃

紀元前に
ギリシャで静電気が
発見された頃

人間が言葉を持ち
社会を形作った頃

そのもっと前の
単なる猿人だった頃

恐竜がいた頃

海にしか
生物がいなかった頃

さらには
地球が生まれた頃

そしてなにより
宇宙が誕生した
プロセス
なくして
目の前の
パソコンの存在も
スマートフォンの存在も
ありえなかった
ことが
見えてくることになります





このことは
パソコン
スマートフォンに
限りません





手もとのコップが
そこにそうして
存在していることも

お気に入りの靴も

ベランダの植物も

住み慣れた我が家も

路傍の石ころも

いま
あなたに
吹きつけた風も

足もとを歩く
ありんこが
存在していることも

あなたが愛する
あの人や
あなたが憎む
あの人が
存在していることも──





そのすべての原因を
「宇宙規模の
ドミノ倒し」が
存在すると仮定して
逆再生するように
辿っていったなら





そのどれもが
「宇宙が誕生したから」
という
最初のパイの配列と
最初のひと押しから
無限のパイは
相互に
ぶつかり
ぶつかられ
「縁」の化学反応を
起こし続けながら
現状の世界にまで
導いてきたと
見ることができて

みなさんが
これまでしてきた
行動
これからする
行動の
すべての
その原因もまた
「宇宙が誕生したから」としか
言えなくなる
壮大なビジョン──




それこそが
「縁起」の真実で




だからこそ
「2」の世界の

「個人」が「運命」を
切りひらくという認識


というビジョンに対し
「1」の世界の人間の
ビジョンは

「宇宙全体」の
森羅万象が
ビリヤードの球や
ドミノ倒しのように
相互に作用しあうことによって
「個人」の「運命」を
切りひらいている
という認識

ならざるをえない
のです






大丈夫ですか?
みなさん
ついてきてますか?

こうしてぼくは
友達を失っていったわけです笑

そりゃそうですね
「P2」のビジョンの頃の
自分が
こんな話を
友達から聞かされたら
悪徳新興宗教への
お誘いと思うか
あるいは
「目え覚ませ!」と
肩をぶんぶん
ゆさぶるでしょう笑




一神教
多神教
「2」の世界の認識というのは
「わたし」と
「神」とが
「わたし」と
「あなた」
「わたし」と
「天上の神」
「山の神」
「太陽の神」
といった具合に
2人称以上に
切り離されているため

そのように記したわけですが




「汎神(はんしん)」とは
(「阪神」の発音ではありませんよ
「阪神タイガース」と読むときの
「はんしん」の発音です)

自分自身もふくめた
この世界
この宇宙のすべてが
「神」であり
「神以外の他に
何も存在しない」

という
西洋では
無神論とも
誤解されてきた
1人称の
ビジョン
です




他の生命体と同様
ぼくたち人間もまた
頼んでもいないのに
こうして地球へと
誕生し
降り立つことになり
おのおの
持たされた
肉体やこころ
好き嫌い
得手不得手
人間関係や
取り巻く環境
死んでは
何度でもよみがえる
「欲求」の引力に
導かれるがまま
「宇宙の誕生」を
原因に
「縁」という名の
レールに沿って
こうして
生かされていることが

他の
動物や昆虫
植物や自然物と
なにが違うというのか?




そのことを
体感的に
理解した人は
必然的に
人間も人工物も
「自然(神)」の一部
という
⦅P4⦆のビジョンへと
引き上げられ




さらにそのまま
ビジョンが極まっていくと
「善」と「悪」
「過去」と「未来」
「生」と「死」
といった
二元性の
境界線もが
曖昧になっていきます





⦅P1⦆の人間は
忌むべき人間
かもしれないけれど
「縁」の導くまま
理不尽すぎるビジョン
人から嫌われるビジョンを
持たされた
その人々は
ある意味
被害者かもしれないし
その人々が
いるからこそ
⦅P2⦆以上の人々は
⦅P1⦆ビジョンを
反面教師とし
よりよい自分になるために
最善を尽くし
ときには力を合わせ
おのおのの
MAXを
叩き出すことができる





一枚の葉(人間としての自分)が
枯れ落ちたとして
木(宇宙)である自分は
果たして
死んだことになるのか?




夜空の暗幕(闇)
なくして
満天の星(光)は
認識できない




自分は
縁の海
そのものなのだから
そこから形成された
渦としての
自分とは
そもそも
生まれてすら
いないのかもしれないし
よって
死ぬこともない





といった具合に

反対の
要素を持った
対義のペアの意味が
打ち消され

「悪」がなければ
「善」は認識できない
「闇」がなければ
「光」は認識できない
というふうに
「正の要素」に
傾いていた天秤が
「正」と「負」とで
均衡を得ることになり
Balance_Scale_convert_20180926142447.jpg
出典:3docean.net





あらゆる二元性が
等価値の
ひとつのものとして
認識されるため






時空を超え
善悪を超え
生死を超えて
繋がりあっている
ぼくたち人間や
他の生物たち
いち個人
いち生物に
「ひとつひとつの
命がある」
わけではなく
無生物や
無機物もふくむ
この宇宙そのものが
「ひとつの生命」
「ひとつの命」である
という
体感的認識が
あとには
残されることになる

のです





「1」の世界の解説は
以上です





「1」の世界までで
すでにみなさん
お腹いっぱいかもしれませんが(`∀´)
次は
「0」の世界(悟りの世界)
解説に踏み込みます

決してそこは
愛に満ちあふれた
お花畑的イメージの
天国ではありませんし
かと言って
地獄でもありません

人によっては
益になりえるし
人によっては
害にもなりえる





そんな
最果てのビジョンを
目にする決心が
ついた方だけ
ぜひ遊びにいらしてください
(以下のタイトルを
クリックしてみてください)




今日も
ありがとうございました


「0」の世界(悟りの世界)の解説 前編 ~アースフルネス「7」ビジョン



人気ブログランキング

アースフルネス「7」ビジョン

画像をクリックすると拡大します
ここをクリック

プロフィール

 友資

このブログの筆者: 友資


初めて訪問された方は、
初投稿記事
  「アースフルネス」とは? 前編
をクリックいただけましたら幸いです。

以下の
アースフルネス「7」ビジョンについての解説は、
哲学やスピリチュアルに馴染のない方は
難しく感じるかもしれません。
わからないところがあれば、遠慮なく質問してください。

  「2」の世界(因果の世界)についての解説
  「1」の世界(縁起の世界)についての解説 前編  後編
  「0」の世界(悟りの世界)についての解説 前編  後編

いずれもこのブログの
骨格を成す記事で、
このブログだけの「公理」でもあります。

ランキングに参加しております。

入力した語句が含まれる記事を探せます。

ツイッターもやってます。

直接に伝えたい用件がある方はこちらからどうぞ。

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード

QR