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ブッダとイエスが「紙」に言葉を残さなかったその理由

今月最後の日も
お越しいただき
ありがとうございます




「対機説法(たいきせっぽう)」
という言葉があります

仏教の開祖といわれている
釈迦(ブッダ)
悩みや
苦しみを抱える
目の前の相手の
心理状態
生い立ち
精神性や知性
得手不得手
価値観や人生観
などを
熟慮したうえで
ケースバイケースで
行った
「話し言葉」による
アドバイス
です




あの
イエス・キリストもまた
対機説法の
天才だったと
いわれていますが




それ以後の
人類の精神性に
もっとも影響を
及ぼしたかもしれない
この2人が
「文字」ではなく
「話し言葉」に
こだわった理由

いったい
どこにあるのでしょうか




実は
その理由は
昨日の記事
「介護」の倫理基準は、理想的な人間関係の倫理基準にもなりえる

密接にむすびつき
なおかつ
このブログ
アースフルネスライフとも
密接にむすびつきます




約一ヶ月間
ぼくがこのブログで
お伝えしてきたとおり
人は
おのおの
グーグルアースのごとく
低い位置で
地上を見ている人がいれば
高い位置で
地上を見ている人がいて
その中間から
見ている人だっています

加えて
見ている角度や
見ている場所も
さまざまで
しかもそれは
日々
変化をいとわないので
視点のバリエーションは
人の数だけある

と言っても
差しつかえなさそうです




なので
みなさんにとって
話が合わない人や
なぜだか
気まずくなる人がいる

その理由とは
見ている高さや
高低のふり幅
見ている角度や
見ている場所の
ずれの大きさにある

言うこともできそうなのです




ブッダと
イエスは
地球がまるごと
見える高さ
というよりも──

グーグルアースという
この世界
この宇宙の
プログラム(二元性の枠組み)から
「いち時的」に
突き抜けてしまった

そんな人たちだと
言うことができます

「いち時的に」
というのが
大事なポイントです
なぜなら
突き抜けたまま
その状態が「継続」されることは
「この世界に存在できないこと」
意味するからです

このことについては
またいずれ





そして彼らは
気がついたのでしょう

仮にもし
「文字」として
紙に言葉を
残したなら──

彼らの言葉が
記された
その紙の中の文字は
書き直したりしない限り
決して変化することが
ありませんが

その紙を
手に取り
文字を読み取る
あらゆる人々は
おのおの
多様な高さと
多様な角度と
多様な場所の
ビジョンを持った
まったく同じ人は
一人もいない
多様な人々です





そうです
「文字」にしてしまった
その時点で
その紙に記された言葉は
言葉を書いた
そのときの
ブッダとイエスの
視点の高さと
角度と
場所からの言葉に
永久に
固定されてしまうため

紙に書かれた
視点の高さと
角度と
場所に合致した
一部の人々にしか
その言葉は
役に立たないことになり
自分のケースに
合致しなかった
それ以外の
多くの人には
悪影響すら
及ぼす結果に
なりかねません





そのことは
富と権力の
欲望うずまく
「宗教戦争」の
陰惨な歴史をひもとけば
ぼくが
のべるまでもありません





ブッダとイエスは
紙に残すことを
避けていたにもかかわらず
彼らを神格化した
後世の人々が
「仏教」
「キリスト教」

という
集団組織を
築き上げました




ブッダとイエスが
ケースバイケースで
目の前の
個人のためだけに
説いた
個人的な「アドバイス」

「聖書」だったり
「仏典」という形で
ぜんぶ
一緒くたに
してしまった
というのが
ぼくの宗教史に対する
ひとつの推論です

(なので
あっちのページでは
こう言ってたのに
こっちのページでは
逆のことを言ってる
というような矛盾も
起こります)




本当は
彼らは
ただ
昨日の記事
「介護」の倫理基準は、理想的な人間関係の倫理基準にもなりえる

「倫理基準」のように




自らの価値観に
偏ることなく
目の前の人の
心身の状況を
可能な限り把握し
目の前の人が
自分の力で
自己決定できるよう
目の前の人の状態に
合わせた
適切な
言葉や行動を
選びぬき
目の前の人の
自己決定を
尊重しようとした──




それだけのことだったはずが
後世の人々が
話を盛ったり
権力に都合がいいように
改ざんした
その結果
過剰に肉付けされた
過剰な神格化が
今なお
大きな余波を
残しているのかもしれないと
思われてなりません




真剣に
両宗教を
真理として
向き合っている方が
もしこの記事を読んでいて
不快な思いをしてしまったら
申し訳ありません

ぼくは
両宗教を
批判したいわけではなく
存在を
否定したいわけでもありません




「宗教」もまた
「宗教」という名の
グーグルアースの中の
ひとつの視点の一部である

という
ぼく友資
いち個人からの
アースフルネス的
ひとつの視点を
語っているにすぎません



ぼくは
特定の宗教の
信者ではありませんが
ブッダとイエスをふくむ
宗教にまつわる
敬愛する人々が
たくさんいますし
宗教芸術が
大好物です

自宅には
ビッグな仏像の顔が
鎮座ましまして
帽子には
聖母マリアのコンチョが
くっついてたりします




最後に
ではどうしてぼくは
「対機説法」ではなく
あえてこうして
「文字」にすることを
選んだ
のか




ひとつの理由は
しゃべりの才がないからですね笑

もうひとつの理由は
ブッダとイエスの時代には
存在しなかった
インターネットや
グーグルアースといった
現代ならではの
新時代ツールと
このブログ
「アースフルネスライフのすすめ」の
インスピレーションが
文字での
「対機説法」の可能性

切りひらいてくれたから
です




「説法」なんて言い方だと
上から目線すぎて
自分としては
とても違和感があるのですが
より高い地点からも
地上を見れる
ビジョンを養う
という意味では
「上から目線」
という言い方も
あながち
間違いではない
のかもしれません





今月も
ありがとうございました
来月からも
よろしくお願いいたします



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額の「V8」の意味は
映画「マッドマックス怒りのデスロード」を
ご参照いただけましたら





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「介護」の倫理基準は、理想的な人間関係の倫理基準にもなりえる

本日もお越しいただき
ありがとうございます


「日本介護福祉士会」
という組織が
定義する
介護サービスの
仕事における
「倫理基準」
というものがあります




以下は
(利用者本位、自立支援)
項目の抜粋です





1.
介護福祉士は、
利用者をいかなる理由においても差別せず、
人としての尊厳を大切にし、
利用者本位であることを意識しながら、
心豊かな暮らしと老後が送れるよう
介護福祉サービスを提供します。




2.
介護福祉士は、
利用者が自己決定できるように、
利用者の状態に合わせた
適切な方法で情報提供を行います。



3.
介護福祉士は、
自らの価値観に偏ることなく、
利用者の自己決定を尊重します。



4.
介護福祉士は、
利用者の心身の状況を的確に把握し、
根拠に基づいた介護福祉サービスを提供して、
利用者の自立を支援します。






この条文を
初めて読んだとき
ぼくは
「これ以上理想的な
他者との関わり方って
他にないかもしれないな」

思わず
膝を打ったものです





この条文の
本質を
できうる限り残した状態で
ぼくが
「人間関係としての条文」
書き換えたものが
以下のものです
(換えたところを赤くしてます)




1.
は、
他者をいかなる理由においても差別せず、
人としての尊厳を大切にし、
その人本位であることを意識しながら、
心豊かな暮らしと
その後の人生が送れるよう
関わります。



2.
は、
他者が自己決定できるように、
他者の状態に合わせた適切な
言葉や行動を選びます。



3.
は、
自らの価値観に偏ることなく、
他者の自己決定を
尊重します。



4.
は、
他者の心身の状況を
可能な限り把握し、
根拠に基づいた
言動や行動を選んで
他者の自立を支援します。






決して
簡単なことではありませんが
高齢者にかかわらず
性別にかかわらず
立場にかかわらず
子供でも大人でも
目の前の人が
その人らしくあれるための
「最善」
この四つの条文のなかには
秘められているような
そんな気がして
なりません





現時点での
自分の手札と
相手が持つ
現時点での
手札のなかで
その相手の持ち味を
フルに活かせる道筋を
サポートできるような
言葉なり行動を選ぼう

という考え方もまた
きわめて
「アースフルネス的」です




なぜなら
アースフルネスは
誰しもに
その人だけの「事情」があり
その人だけの「言いぶん」があり
その人だけの「人生」があることを
読み解き
受け容れる
スキルでもあるからです

読み解き
受け容れた
そのあとであれば
相手に対する
批判の言葉や
否定意見は
「当初予定していたものとは
まったくちがう
建設的なものになる」
可能性が
ぐっと引き寄せられます





理想の人間関係の
指針
として
この介護福祉士会の
倫理基準は
世界共通の
平和的シンボル

なりえる可能性すら
秘めていると
思えてきますね




今日も
ありがとうございました



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出典:www.factmag.com
ケンドリック・ラマーは
この倫理基準を
気に入ってくれるかしら





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「人も世界も循環する」 縄文的アースフルネス

本日もお越しいただき
ありがとうございます



ぼくら現代人は
あたりまえのように
「ゴミ」を生み出し
「ゴミ」を捨て
始末すること

日々
追われ続けていますが




縄文時代の人々には
そもそも
「ゴミ」という概念が
なかった

いわれています




使えなくなったもの
不要になったもの
役目を終えたものは
森(神)に還すものであり
人も
自然も
すべては輪を描くように
循環する
という
世界観や人生観が
息づいていたことが
縄文人の末裔といわれている
アイヌの文化からも
見えてくるというんですね




縄文人は
おおむね
「屈葬」という
膝を抱えるような
体位にする形で
死者を
弔っていたそうなのですが

ここにこそ
縄文とアイヌの
思想哲学を
垣間見ることができます




そうです
誕生のときを待つ
お腹の中の赤ちゃんが
膝を抱えているように──

縄文人にとって
「死」という「終わり」は
同時に
「生」への「始まり」でもあった

かもしれないのです




確かに
この世界
この宇宙は
「循環」に
みちみちています

アースフルなビジョンで
この世界を
照らすなら
星々の円運動のごとく
この宇宙
この世界には
循環していないものなど
ひとつもない
ことが
見えてくることになります
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出典:phys.org





日々
決して長くはない
余生を生きる
様々な高齢者と
接していると
彼ら彼女らが
大人から少年少女
少年少女から幼児期
幼児期から乳児
そして胎内へと──
還っていく
プロセスにある
のを
見逃すことができません




理性や
自意識の
筋力が
衰えれば
衰えるほどに

記憶や
想起の筋力が
衰えれば
衰えるほどに

その姿は
肉体的な衰えを
省いたなら
さながら
子供の姿
そのもの
です





子供は
子供であるほどに
「自」と「他」の
境目がなく
「過去」という
経験則が少ない
限りなく透明に近い
存在
ですよね

ゆえに
「現在」と「過去」を
結びつける
「角」や「面」の
材料が少なく
「未来」に対するビジョンも
明確ではなく
「いま」目の前で起きている
その連続が
世界のすべて

だったりします

幼少期の記憶が
ほとんどない人が
多い理由も
こんなところに
ありそうです





そんなふうにして
子供は
肉体の成長や経験
自意識や理性の
芽生えとともに
「過去」「未来」の側に
認識される世界の比重が
傾いていくことになります





施設の
高齢者の方たちの
共通するひとつの特徴として
「同じ話を
何度もする」
「毎日
同じ行動パターンを
くりかえす」

というものがありますが





これが
脳の神経細胞の
変性や脱落により
「認知症」の領域に
踏み込むところまで
重症化してくると
過去の記憶の断片が
「過去」として
認識されるのではなく
「現状」として認識される
ため

たとえば90歳の人が
自分を50歳と思い込み
すでに亡くなっている両親を
自分よりも若い姿で
生存していると思い込み
自分が帰らないので
心配している
などという思い込みが
発生することになります





そんな
「思い込みの過去」の
延長で発生する
「未来」もまた
「思い込みの未来」である
ことは
疑いの余地がありません




息子や娘の顔すらも
わからなくなっていくことも
ある意味
「自」と「他」の
境目が曖昧な
乳児期への回帰
です




つまり
人は
「いま」を生きる
乳幼児期を経て
「過去」と「未来」の
二元性に
いろどられた
この世界を旅し
やがては
「いま」を生きる
老年期末を経由し
胎内へと還ってゆく──

ということが
言えそうなのです

もちろん
ここでいう「胎内」とは
縄文でいうところの
森であり
です





そのことを
理解しているだけでも
高齢になった家族が
息子や娘の顔も
わからなくなってしまったり
時系列を無視した
むちゃくちゃな発言を
始めてしまった
そんなときも
落ち着いた対処が
できるかもしれません





ちなみに
縄文時代について
平均寿命14.6歳という
信じがたい推計が
あるようなのですが

仮にもし
そのことが真実なら
ぼくたち現代人は
肉体的
精神的
「老い(乳幼児期への回帰)」
「不自由」という
非常に難易度が高い
人生プロセスを
体験することができる

稀有な時代を
生きていると
言えるのかもしれません




今日も
ありがとうございました




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息子の友人のインコを預かることになり
興味しんしんのぺこちゃん






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「ゼロからのスタート」をアースフルする★映画「泣き虫しょったんの奇跡」

本日もお越しいただき
ありがとうございます




9月7日から公開の
「泣き虫しょったんの奇跡」
という映画の予告を
たまたま目撃したとき
153010179989610135177_convert_20180825235417.jpg
出典:95138197.at.webry.info


主演の松田龍平さんから
発せられた
こんな台詞から
今日の記事の
インスピレーションを
得ました




「ぼくはもう
一生プロになれない
将棋しかやってこなくて
ぼくはゼロになった」





日本将棋連盟の
規定による
年齢制限によって
プロ入りできずに
奨励会を
退会処分になった
そんなシーンで
使われる台詞のようです




ですが
予告で見た限りだと
主人公はその後
再起をはかって
「ゼロからのスタート」
決行することが
わかります





みなさんは
「ゼロからのスタート」と
耳にすると
どんなシチュエーションを
思い浮かべるでしょうか




「泣き虫しょったんの奇跡」
のように
夢かなわなかった
人生の敗者が
新たな道を
歩むべく
最初の一歩を
踏み出したとき
でしょうか




それとも
思いがけぬ逆風
あるいは
思いがけぬ順風により
それまで考えもしなかった
新たな道筋が
目の前に用意された
そんなときでしょうか




それとも
走ることを
生きる道としていたものが
生涯走ることのかなわない
未来を左右するレベルの
大きい傷を負った
その地点からの
再起のときでしょうか





これらの視点は
グーグルアースに
なぞらえるなら
地上に最も近い地点に
フォーカスした視点です






確かに
その位置から
見渡したならば
上にあげた
シチュエーションの
すべては
「ゼロからのスタート」
ほかありません




では
その地点から
もう少しだけ
ズームアウトしてみてください

街の全体像や
それを取り囲む
山並みが
見えるくらいの
地点まで
視界が広がって来ると
実は
「ゼロからのスタート」は
存在しないことが
見えてくる

ことになるんですね




それもそのはず
だって
まったく違う方向に
舵を切ることになった
ゼロ地点の
「その前にも」
その人の人生は
存在していて
積み上げてきた
経験や知識
流した
血と汗と涙や
築かれた人間関係が
「ゼロからのスタート」
であるはずの
ゼロ地点においても
疑いの余地なく
刻まれているからです





そこから
さらにさらに
ズームアウトし
まあるい地球の
その全貌が
見えるところまで
ビジョンを
広げてみてください

するともっと
面白いものが
見えてきます





通常ぼくらは
過去から未来へと
ひとつの直線をたどるように
この世界を生きている

いつもの日常を
認識しているわけですが──





いつなんどきも
認識される
「過去」と「未来」は
「いま」
もしくは
「現在」という
ゼロ地点から見た
過去と未来
それしかありません




どういうことかと言いますと
思い出のアルバムも
過去の歴史の記録も
2020年
東京オリンピックの展望も

「過去」「未来」とされる
そのどれもがすべて
いつなんどきでも
「いま」「現在」からしか
アクセスできないもの

なんですね




よってぼくらは
実は
ひとつの直線を
進んでいるわけではなく
始まりも
終わりもない
瞬間瞬間の
「ゼロからのスタート」の
連続を
生きている存在

と言っても
過言ではないわけです





今回は
3パターンの視点を
ピックアップしてみましたが
どの地点
どの角度から
見える世界も
そのどれもすべてが
正解です

このことは
ぼくがこれまで
書いてきた記事
これから
書いていく記事
すべてに
当てはまることです




そんなわけで
どの地点
どの角度から
見える世界を
切り取り
生きるべきかは
いつだって
あなた次第だし
いつだってそこは
誰にも犯しえない
「聖域」なのです
(都市伝説ふうに)
E996A2_convert_20180825231215.jpg
出典:dekaribon.blog.so-net.ne.jp




今日も
ありがとうございました





昨日の東京の夜は
すさまじい雷鳴をともなった
すさまじい雨が降り注ぎました
あきれるほどに
泣き虫なお天気でした






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ラッパーKREVAの「ノリ」と「鳴り」に見るアースフルネス

本日は
先月の放送ですが
TBSラジオ「アフター6ジャンクション」
出演された
KICK THE CAN CREWのメンバー
ラッパーのKREVAさんのお話が
あまりに素晴らしかったので
どうしても
記事にしたかったのですが
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専門的かつ
濃密な内容だったので
取りかかるタイミングがつかめず
先送りにしてしまっていました




日本が誇る
音響メーカー
AKAI(アカイ)の
「MPC3000」
「MPC4000」

ふたつの楽器を
KREVAさんが
準備してくれたのですが
akai-mpc3000-94670_convert_20180825170803.jpg
出典:ja.audiofanzine.com
akai-mpc4000-2318_convert_20180825171050.jpg
出典:ja.audiofanzine.com

このふたつの楽器が
どういう楽器なのかというと

ヒップホップと縄文とアイヌ、そしてアースフルネス 後編
の記事でも
ご紹介した
「サンプリング(録音)」機能
備わっていることと

それら
様々なサンプル音を
4×4の配列になった
ボタンのところに(上記画像参照)
それぞれ設定して
パーカッションのように
鳴らすことができる
「ドラムマシン」機能
(4×4の配列になったいきさつに
スティービー・ワンダーが
関わっていた話も
エキサイティングでした)

そして
楽器を
扱う人からの
「指示系統(指示通りの自動演奏)」
受け持つ
「シーケンサー」機能
呼ばれる
本来はバラバラだった
三つの機能が
ひとつになったもの
それがこのMPCシリーズ
ということなんですね




ではこの
3000と
4000の
何が違うのか?





実はこの
3000までが
ロジャー・リンという創始者が
制作にたずさわったもので
4000からは
そうではないのだそうで
ブラックミュージックにたずさわる
玄人(海外アーティストも含め)のほとんどが
「3000までの
MPCのほうが
ノリがいい」
「3000こそが
キングだ」

断言して
ゆずらないのだそうです

4000以降のほうが
音もいいし
操作性もいいし
スペックも進化している
にもかかわらず
です

(KREVAさんも
おっしゃってましたが
「スティーブ・ジョブス存命までの
アップル製品こそが
アップルだ!」

という話に
ちょっと似てますよね笑)




ですが
KREVAさんは
上記の玄人話が
真実であり
「3000と4000の
その違いの妙味にこそ
ホンモノのグルーヴを
求めてやまない
玄人を納得させる
音楽の本質が隠れている」

という仮説を
提示しに来たわけです



KREVAさんは
その「妙味」の部分の
キーワードとして
「ノリ」と「鳴り」
ふたつのポイントを
ピックアップします




それにしても
「ノリ」と「鳴り」って──

無機的な存在である
機械が持っている
「ノリ」「鳴り」
とは
いったい
どういうことなのでしょうか




KREVAさんは
3000と4000の
その違いを
数値化することに
成功したことを
この場で公表します




すると
驚くべき結果が
そこには
証明されていたんですね



4000や
上位機種であればあるほど
帳尻合わせをしながら
精確なリズムを
刻んでいるのに対し

スペックが劣る
3000は
精確さを欠きながら
玄人にしか
聞き取れない
リズムの遅れ(ずれ)を
保ちつつ
微細に前後する
独自のゆらぎ(ノリ)を
生み出している
ことが
視覚的に
確認できたわけです



さらに
それぞれの楽器の
実演では
「鳴り」に関しての
差異

聴こえてくることになります

4000のほうが
一個一個の音が
整理されていて
クリアなのに対して

スペックが劣る
3000のほうは
音の密集感があり
人肌感や
強さ
太さのようなものがある

ということが
判明するんですね




決して
精確ではない
漂白されきっていない
「いびつさ」や
「計算外」にこそ
音楽を極めんとする人々の
求めるものがあり
あたたかさがあり
大切なものがある

というのは
なんだか──

「人生」の妙味
そのもの

聞かされている
そんな感じがして
ちょっぴりじんとしましたね




人生
思いどおりにいかないこと
ばかりだし
スマートにはいかないこと
ばかりですが
そういう
グルービーな
浮き沈みのゆらぎをたずさえた
不完全な人生(音楽)をこそ
人間の耳が
求めてしまうのであるなら──

音楽はきっと
いつだって
ぼくら
いびつな人間たちの
一番の理解者に
ちがいないのです





今日も
ありがとうございました




先日の木村拓哉さんと同じく
KREVAさんもまた
無二の「存在感」ですね





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プロフィール

 友資

このブログの筆者: 友資


初めて訪問された方は、
  vol.1「アースフルネス」ってなに?前編の動画を見ていただくか、


初投稿記事
  「アースフルネス」とは?前編
をクリックいただけましたら幸いです。

以下の
アースフルネス「7」ビジョンについての解説は、
哲学やスピリチュアルに馴染のない方は
難しく感じるかもしれません。
それぞれの世界の動画解説もあるので
まずは動画をみていただくことを
お勧めします。

  「2」の世界(天秤世界&父性世界)についての解説
  「1」の世界(縁起世界&母性世界への扉)についての解説 前編  後編
  「0」の世界(悟り世界&母性世界)についての解説 前編  後編

いずれもこのブログの
骨格を成す記事で、
このブログだけの「公理(ものさし)」でもあります。

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