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「人も世界も循環する」縄文的アースフルネス パート2

乳幼児期の
子供は
乳児に近ければ
近いほどに
「自分」と
「自分以外のもの」
との
境目がなく




「過去」という
経験値がなく

よって
「未来」を
見ることもない


「角」と「面」
以前の
「点」の状態





「いま」
目の前で
起きていること

それだけが
世界のすべてで




だからこそ
限りなく
「1」の世界に近い
世界を
認識している存在と
言うことができます




誰しも
乳幼児期の記憶
乏しい理由は
やはり
こんなところに
ありそうです




次第に人は
肉体の成長や
自意識や理性の
芽生えとともに
「自分」と
「自分以外のもの」を
認識し始め
「いま」に
比重を置く存在から
「過去」と「未来」
つまり
「2」の世界へと
認識される比重が
傾いていくことになり──





ようやく
この世界における
「本番」
へと
踏み入り

悲喜こもごも
煩悩や執着を
味わいながら
病死や自死
事故死などなければ
後期高齢期までを
生きることに
なっていきます




そして
老衰とともに
理性や
自意識の機能が
衰えれば
衰えるほどに

記憶や
想起の機能が
衰えれば
衰えるほどに

心身の活動量も
生への執着も
うしなわれていき

その姿は
「盛」への方向性と
「衰」への方向性

という
対比される
不可逆性をのぞけば
終末期の高齢者もまた
さながら
乳幼児期の
「1」の世界の認識
そのもの
です




パート1でも
示したとおり
縄文人が
死者を
膝を抱えた状態の
「屈葬」にて
とむらっていたことは

母親の胎内に
新たな生命が
宿るプロセス

想起させます




「死者」と
「生者」とを
つなぐ

その
知覚不可能領域が
「0」の世界であるなら





人は
「0」の世界から
生を受け

「1」の世界を
通過して

「2」の世界へと
足を踏み入れ

老年期から
ふたたび
「1」の世界へと
歩み寄っていくことになり

「0」の世界へと
還る存在




そんなふうに
言うことが
できるのかもしれません




「0」から「1」へ
「1」から「2」へ
「2」から「1」へ
「1」から「0」への
循環世界

宇宙とおんなじ
円運動が
いち人生にもまた
反映されています





今日も
ありがとうございました


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こんなところにも円運動?が




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「人も世界も循環する」 縄文的アースフルネス

本日もお越しいただき
ありがとうございます



ぼくら現代人は
あたりまえのように
「ゴミ」を生み出し
「ゴミ」を捨て
始末すること

日々
追われ続けていますが




縄文時代の人々には
そもそも
「ゴミ」という概念が
なかった

いわれています




使えなくなったもの
不要になったもの
役目を終えたものは
森(神)に還すものであり
人も
自然も
すべては輪を描くように
循環する
という
世界観や人生観が
息づいていたことが
縄文人の末裔といわれている
アイヌの文化からも
見えてくるというんですね




縄文人は
おおむね
「屈葬」という
膝を抱えるような
体位にする形で
死者を
弔っていたそうなのですが

ここにこそ
縄文とアイヌの
思想哲学を
垣間見ることができます




そうです
誕生のときを待つ
お腹の中の赤ちゃんが
膝を抱えているように──

縄文人にとって
「死」という「終わり」は
同時に
「生」への「始まり」でもあった

かもしれないのです




確かに
この世界
この宇宙は
「循環」に
みちみちています

アースフルなビジョンで
この世界を
照らすなら
星々の円運動のごとく
この宇宙
この世界には
循環していないものなど
ひとつもない
ことが
見えてくることになります
dostarsmove_convert_20180829155056.jpg
出典:phys.org





日々
決して長くはない
余生を生きる
様々な高齢者と
接していると
彼ら彼女らが
大人から少年少女
少年少女から幼児期
幼児期から乳児
そして胎内へと──
還っていく
プロセスにある
のを
見逃すことができません




理性や
自意識の
筋力が
衰えれば
衰えるほどに

記憶や
想起の筋力が
衰えれば
衰えるほどに

その姿は
肉体的な衰えを
省いたなら
さながら
子供の姿
そのもの
です





子供は
子供であるほどに
「自」と「他」の
境目がなく
「過去」という
経験則が少ない
限りなく透明に近い
存在
ですよね

ゆえに
「現在」と「過去」を
結びつける
「角」や「面」の
材料が少なく
「未来」に対するビジョンも
明確ではなく
「いま」目の前で起きている
その連続が
世界のすべて

だったりします

幼少期の記憶が
ほとんどない人が
多い理由も
こんなところに
ありそうです





そんなふうにして
子供は
肉体の成長や経験
自意識や理性の
芽生えとともに
「過去」「未来」の側に
認識される世界の比重が
傾いていくことになります





施設の
高齢者の方たちの
共通するひとつの特徴として
「同じ話を
何度もする」
「毎日
同じ行動パターンを
くりかえす」

というものがありますが





これが
脳の神経細胞の
変性や脱落により
「認知症」の領域に
踏み込むところまで
重症化してくると
過去の記憶の断片が
「過去」として
認識されるのではなく
「現状」として認識される
ため

たとえば90歳の人が
自分を50歳と思い込み
すでに亡くなっている両親を
自分よりも若い姿で
生存していると思い込み
自分が帰らないので
心配している
などという思い込みが
発生することになります





そんな
「思い込みの過去」の
延長で発生する
「未来」もまた
「思い込みの未来」である
ことは
疑いの余地がありません




息子や娘の顔すらも
わからなくなっていくことも
ある意味
「自」と「他」の
境目が曖昧な
乳児期への回帰
です




つまり
人は
「いま」を生きる
乳幼児期を経て
「過去」と「未来」の
二元性に
いろどられた
この世界を旅し
やがては
「いま」を生きる
老年期末を経由し
胎内へと還ってゆく──

ということが
言えそうなのです

もちろん
ここでいう「胎内」とは
縄文でいうところの
森であり
です





そのことを
理解しているだけでも
高齢になった家族が
息子や娘の顔も
わからなくなってしまったり
時系列を無視した
むちゃくちゃな発言を
始めてしまった
そんなときも
落ち着いた対処が
できるかもしれません





ちなみに
縄文時代について
平均寿命14.6歳という
信じがたい推計が
あるようなのですが

仮にもし
そのことが真実なら
ぼくたち現代人は
肉体的
精神的
「老い(乳幼児期への回帰)」
「不自由」という
非常に難易度が高い
人生プロセスを
体験することができる

稀有な時代を
生きていると
言えるのかもしれません




今日も
ありがとうございました




無題_convert_20180829153406
息子の友人のインコを預かることになり
興味しんしんのぺこちゃん






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ヒップホップと縄文とアイヌ、そしてアースフルネス 後編

本日もお越し頂き
ありがとうございます

昨日の記事
ヒップホップと縄文とアイヌ、そしてアースフルネス 中編
の続きです。




ヒップホップの
創作手法のひとつに
「サンプリング」というものがあります

既存する他者の音源から
バックトラックや声など
一部をサンプル(引用)し
再構築して
新しい音楽を創造する手法です





ですが
アースフルに
そのビジョンを
拡大していけばいくほどに──

ヒップホップどころか
すべての音楽
すべての芸術
すべての表現
すべての創作物は
既存の何かしらのものからの
インスパイア
その連続でしかありません
(ここでいうインスパイアは
「驚き」が世界を変えていく 多田克彦
の記事の
「驚き」とも言えそうです)




この世界において
ゼロから何かを
生み出せる人なんて
一人もいないですし
この世界から
何ひとつサンプリングしてない人なんて
一人もいない

そんなビジョンが
まざまざと見えてくるんですね





そんななか
堂々と「借りもの」であることを
音楽的に明言し
貸出者に
リスペクトを送りつつ
合気道のごとく
借りた力を増幅させ
包み隠さず
自己顕示欲をビートに乗せ
音楽に昇華させることを
むしろ誇りとする
ヒップホップは
潔いし自由だなあと
思うのと同時に──

ここでもまた
縄文的「借りものスピリット」
重ねずにはいられません





なんせ
縄文やアイヌの人々にとって
森や動植物や
岩や石ころ
風も雨も
太陽も月も
自然のすべて
目には見えない存在もすべて
対等であり
「神」という考え方ですから
私の人生は
「借りもの」でできているのだ

堂々と
言ってるようなものですからね
借り物の時間の中で
本物の夢を見るんだ

と歌う甲本ヒロトさんや
作詞した真島昌利さんもまた
縄文イズムを
歌っているのかもしれませんね)




であれば
サンプリングをする
あらゆるアーティストにとって
貸出者は
ひょっとすると「神」であり
「拝借した音源」もまた
ひょっとすると「神」
なのかもしれません





そして
アイヌの人々にとって
カムイ(神)が
対等な立場の存在
であるのと同時に
共に歩む存在でもあった
とするのなら
貸出者と
借りた者とは
ともに並走している存在

言うことができます




さらに言えば
いかなる貸出者も
誰かしらから(人間からに限らず)
借りているからこそ
次なるバトンを
受け取るための
準備の整った
誰かに向け
バトンを渡せるのだとすれば──

時空を超えた
連綿たる「借りもの」の
つらなりは
「自分」という「肉体」
そして「意識」もまた
「借りもの(カムイ)」であること

畏怖することを
覚えるのと同時に

「人生」とは
「カムイの子宮の中」のことなのだ
という
カムイの羊水に
包み込まれ
満たされている
深い安らぎとやさしさと
よき友人であり
よき母であり
よき並走者でもある
カムイの恩恵を
感じずにはいられないのです





まだまだ
縄文トピックは
広げられそうなのですが
ぼくの力不足で
いまだに興味を持てない方も
いると思うので
今回はここまでで
いったん退きますが

縄文時代にフォーカスした
アースフルネス
またやりたいです!
望月さん
ありがとうございました

そしてみなさんも
今日もありがとうございました






147057910967909200179_convert_20180810155014.jpg
出典:s.webry.info

日本最古の国宝「縄文のヴィーナス」
妊婦を象った作品だと言われてるそうですが
そのお腹周りを
本人のものではない
大きな別の両腕が
包み込むように
守っているようにも見えます






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続きを読む

ヒップホップと縄文とアイヌ、そしてアースフルネス 中編

今日もお越しいただき
ありがとうございます

昨日の記事
ヒップホップと縄文とアイヌ、そしてアースフルネス 前編
の続きです





さて
昨日は
「チャランケ」には
カムイ(神)への談判
人間同士の調停
ふたつの意味がある
というところまで
お話ししました




では
人間同士のいさかいの場合
どのようにして
調停を結ぶにいたるのか





それはというと
言い分がある者同士を
向かいあわせ
相手集落や
集落内の人々に
ギャラリーになってもらい
音楽的に韻を踏んだり
ふしをつけたり
自分の集落(地元?)を
レペゼンしたりしながら
両者が交互に
自分の言い分を語り

聞く側は
相手のターンが終わるまでは
黙って耳を傾け
決着がつくまでは
一晩中でも
何日でも
飲まず食わずで
続けるという
血を流さずして
和解を目指すという
平和的解決方法が
アイヌの人々のあいだでは
行われていたそうなのですが






まさにこれは
現代で言うところの
ヒップホップの誕生
血を流さずして
争いごとを
治めるために
生まれた音楽であることや





ちまたで流行の
フリースタイルダンジョン(MCバトル)
チャランケの要素を
随所に宿した
競技であるということを
望月編集長
指摘されているところです
(流暢なアイヌ語は
まるで音楽を聴いているかのように
美しいそうです)





ではやはり
弥生以降の
所有社会(父性社会)
築き上げた
現代社会における
MCバトルは
合理的な論破合戦なのかというと
アースフルに読み解くなら
まったくそんなことはありません





審査基準が
審査員の主観(好み)という
非合理な判定基準に加え
特に言いたいこともない相手とも
ときには
リスペクト(敬愛)している相手とも
自己プロモーションのために
ただ勝ちたいがために
あるいは
ヒップホップへの愛ゆえに
戦わねばならず

相手を知り
その日の
会場の空気を読み
相手の出方を見たり
相手の虚を突く
攻めの手や戦術を
手持ちの手ふだで
瞬間に導き出すということは
まずはじめに
母性(共感力)がないことには
できないこと
だと
ぼくは思うんですね





相手を取りこぼしなく
知ろうとする
相手を取りこぼしなく
受容する
共感力に抜きんでる

ヒップホップユニット
CREEPY NUTS(クリーピーナッツ)の一員で
フリースタイルラッパーでもある
R-指定さんの
その強さの秘密は
こんなところにもありそうです
rshitei_convert_20180810140642.jpg
出典:dews365.com





相手を
わかればわかるほど
相手が一番
突かれてほしくないところ
苦手としているところが
見えてくるわけです







いっぽうで
縄文社会(母性社会)の風習である
チャランケだって
合理性(父性)がないのかというと
そんなこともありません。





審査基準に関しては
チャランケの
ジャッジメントのほうが
明快なまでに
合理的ですし
誰も文句のつけようが
ないですよね
(単なる体力勝負じゃねえか!
という疑いもありますが笑)





そして
先ほどもお話ししたとおり
チャランケは
お互いに言い分が
明確にある
合理的な論破戦です

けれども
饒舌だけど
言ってることに
筋が通っていない人と
たどたどしいけど
筋が通ってる人とが
口論しても
前者に軍配が上がることが
一般社会のなかでも
往々にしてあるように

どんなに確固たる
ロジック(論理)を持ってしても
口ごもってしまっていたら
勝てやしません





スポーツもまた
ぼくが述べるまでもなく
合理性のみで
勝てるスポーツなんて
どこにもありませんよね





結局のところ
MCバトル
チャランケに限らず
あらゆる競技や
あらゆる戦いは
合理と
非合理の両輪を宿した
人間同士の
ぶつかり合い

なのかもしれません




にもかかわらず
やはり
現代社会は
所有&貯蓄合戦
弥生イズムの継続(父性社会)

すぎないのか?





ぼくは
MCバトルと
チャランケの例を
ひとつ取ってみても
そうは思えずにいます

また
宇多田ヒカルさんの記事でも
お話ししたように
アースフルなビジョンに満ちた
この世界は
相反する
あらゆるふたつの糸で
織りなされた
巨大なタペストリーです







日本列島に
「所有」という概念がなかった
そんな時代にも
他の国や文明では
その反対の概念が
まかり通っていたように

いつの時代でも
「父性」と「母性」
「合理」と「非合理」とが
どちらかに偏りすぎないよう
バランスを保つかのように
この地球(あるいは宇宙)全体をいろどることは
「終わり」と「始まり」が
ぼくらの世界から切り離せないものであるのと同じく
「父性」と「母性」もまた
呼吸運動(吸うと吐く)のごとく
不可分の摂理なのだと──



そんなことを思います




現代の政治や
金融システムが
誰しもにそなわった(特に男性)
「父性性」を強くあおるように
設計されている
だけのことで
たとえ縄文の血が絶えようとも
このご時世になって
縄文ブームが
到来していることを見ても

まったく無自覚に
忘れてしまっているだけで
いつだってぼくたちは
失われることのない
縄文スピリット(母性)を
その内に
秘めているのではないでしょうか





明日は後編です
今日もありがとうございました




Nishi-no-mae_Iseki_dogu-2_convert_20180810133129.jpg
出典:ja.wikipedia.org


国宝「縄文の女神」
このお尻フリークをもうならせるだろう
ヒップラインを目撃したとき
一万年以上前の作者とぼくは
見えない握手を交わした(ような気がした)







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ヒップホップと縄文とアイヌ、そしてアースフルネス 前編

今日もお越しいただき
ありがとうございます



本日は
TBSラジオ
「アフター6ジャンクション」の
特集コーナーゲスト
望月昭秀さん(フリーペーパー縄文ZINE編集長)
お話に触発され
多くはありませんが
関連書籍や
ネットの情報などを頼りに
アースフルを試みた記事です





朝鮮半島から
稲作文化(弥生文化)が
運び込まれる
そのときまで
日本列島は
縄文時代を
一万年以上ものあいだ
存続させてきた

伝えられておりますが





それだけの長期間
存続できた理由はというと
縄文文化が
「母性社会」であったことが
その要因であると
分析する方も多くいるようで





父性とは
ぼくが思うに
「競争力」や
「反発力」
あるいは
「合理性」
なのですが
母性は
その対極にあるもの
「共同力」や
「協同力」だったり
「共感力」
そして
「非合理性」
もっと言うなら
「愛」
と言っても
いいかもしれません





文字がなく
国家も存在しない文化が
一万年以上も存続した
という例は
世界史的にも
他にないそうなんですね





集団のリーダーを担うのは
「巫女」の役割で
女性を中心とした
社会を築き上げていた
縄文人は
生きるために獲得できる
あらゆる食料や
道具となるものを
「森からの借りもの」
そう考え
最終的には
「森に返すもの」
そう考え
定住している土地の
狩猟採集物資が
少なくなってくると
別な土地に移動するという
定住移動の
両型スタイルを
取っていたそうです





なので
彼ら彼女らには
「自分のもの」という
所有概念がなく(ある人もいたかもしれませんが)
「森(自然)」と
「神」とは
同じもの
だったといいます




縄文人の末裔と
言い伝えられている
アイヌの人々もまた
「森(自然)」を
「カムイ(神)」
と称します

ちなみに「アイヌ」は
「人間」という意味です





「所有」「貯蓄」という
新概念が
持ち込まれたのは
弥生時代以降
稲作が
伝来することになってから





スマホ登場初期は
「スマホなんて邪道だ!」と
かたくなにガラケーに
こだわっていた人々も
便利さや
社会的孤立から
結局はスマホを
持たざるをえなくなったかのごとく

人々は
所有する土地を
区画化するようになり
食料(富)を
蓄えるようになり
やがては奪い合い
争いを始めることに
なってゆきます
(ちなみに
争いによる暴力的な痕跡が
遺骨などから見つかるのは
弥生以降だそうです)





縄文スピリット(母性社会)の終焉
そして
現代社会にまで通ずる
父性社会の黎明です






「借りものスピリット」は
次第に影を
ひそめるようになってゆき
「所有文化」になじめなかった
一部の人々は
北へ北へと追われ
現在の「北海道」へとたどり着き
アイヌという
縄文ゆかりの文化を
築き上げました




なので
望月さんいわく
北海道には
弥生時代はなかった

言うことができるそうです





アイヌの先住民族が
縄文スピリットから
受け継いだとされている
独特の風習に
「チャランケ」というものが
あります





チャランケには
「アイヌ(人間)」同士の
争いごとの調停


「カムイ(神)」への談判という
二つの意味が
ありました






予期せぬ災害や
事故に見舞われたとき
カムイへの談判は
行われます

多神教のごとく
カムイにも
いろんな役まわりのカムイがいたようで
見張り役のカムイの
怠惰を責めつつ
他のカムイたちにも
今後はこういう災厄や事故がないよう
お願いするというんですね






興味深いことに
神を崇める(上に見る)人が
多い現代人には
理解しがたいことだと
思われますが
カムイはアイヌにとって
偶像でも崇拝対象でもなく
共に生き
共に歩む
対等な立場の存在

だったそうです





アースフルに
読み解くなら
極端な上(偶像や妄信)を
作るということは
必然的に同時に
極端な下(差別や排他)が
生み出されることを
意味します






肉眼で見える
自然や動植物も
目には見えない
神秘なるものも
対等な立場として考える

縄文時代の
平和の秘密が
そんなところにも
あるのかもしれません





そしてもうひとつ──

人間同士のいさかいケースの
チャランケについては
長くなってしまったので
明日にゆだねたいと思います









「縄文」というトピックに
魅せられると同時に
いざなわれるように
東京国立博物館の
縄文展に足が動いておりました
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無題

どういうわけか
縄文の人物造形は
みんな三本指↓
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出典:pinterest.jp
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出典:55museum.com
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出典:tnm.jp
宇宙人?説があるとかないとか








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アースフルネス「7」ビジョン

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 友資

このブログの筆者: 友資


初めて訪問された方は、
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  「アースフルネス」とは? 前編
をクリックいただけましたら幸いです。

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アースフルネス「7」ビジョンについての解説は、
哲学やスピリチュアルに馴染のない方は
難しく感じるかもしれません。
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  「2」の世界(因果の世界)についての解説
  「1」の世界(縁起の世界)についての解説 前編  後編
  「0」の世界(悟りの世界)についての解説 前編  後編

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