FC2ブログ

「信じる」の障壁を超えてその人にふれる ~エホバの証人~

確か
一昨年のことです
キリスト教系の宗教組織
エホバの証人に属する
20代の女性の方と
ゆっくりと
お話ができる機会が
あったんですね

ぼくが彼女の
夜勤における
研修教育を任された
そんな出会いでした




このチラシは
彼女との別れ際
いただいたものです
IMG_20181028_101722_convert_20181028103958.jpg





宗教上の理由で
輸血することが
できないがために
我が子を
死に至らせてしまったり
輸血をほどこした医師が
訴えられてしまったり
といった
輸血にまつわる
社会的エピソードに加え




その教義内容や
過去に受けた
勧誘の印象など
掛け合わせつつ




排他的で
偏った世界観の
宗教組織
なのだろうと
主観イメージを
ぼんやり抱いていた
ぼくでしたが




彼女との出会いは
特定の宗教に
属する人々
すべてが
排他的な考え方を
持っているわけではないし

ぼくの
一方的な
思い込みであった面も
多々あること

気づかされる
出会いでもありました




きっかけは確か
ぼくが読んでいた
仏教に関する本でした




お互いの素性は
家族構成や
出身地程度しか
知らない
距離感の中
ふと
本に目を留めた
彼女は
興味深く
本の中身についての
説明を
ぼくに求めました




「新世界訳聖書」という
独自の聖典に
忠実にあろうとし
唯一神エホバ(ヤハウェ)
信仰する彼女

こともあろうに

「神は
人称化できない」

「肉体が
命をうしなうのではなく
命が
肉体をうしなう」

などという
ぼくの話に
睡魔の誘惑を
免れない
真夜中2時3時に
熱意を持って
耳を傾けてくれたんですね




社交辞令
だったかもしれませんが
彼女は
「ブログを
拝見したい」とも
言ってくれたので
ブログ名を
伝えた覚えがあります




その場では
多くを語らず
理解することに
つとめてくれていた
彼女でしたが
こころの内は
反論を禁じえない
強い信念が
あったに違いありません




「信仰」を
何より重んじる
その人にとって
「自らの命」と
同等でもある
それを
「理屈」や
「合理性」で
「正しい」とか
「間違ってる」とか
簡単に
割り切れるものでは
ない
んですよね




なぜなら
他の誰でもない
その「信仰」こそが
自分を
護ってくれているもの
自分を
救ってくれているもの
だから
です

たとえ
他者からは
そうは見えなくとも──




もちろん
宗教や信仰を
利己的な目的で
悪用する人間が
多くいることは
事実です




ときには
信仰のいさかいが
傷つけあいとなり
果てには
戦争にまで
発展してしまう
そんなケースが
少なくないことは
歴史が
証明しております




けれどもそれらは
宗教に限らず
すべての「信じる」に
言えることですが
相手が
何より大切にする
「信じるもの」を尊重し
その人もまた
「自分と同じ
ただの人間」
であることを理解し




その人が
そのことを
「信じる」までにいたった
「経緯」にこそ
「敬意」を払うならば




「考え方の違い」
「価値観の違い」
「宗教観の違い」
という障壁を超えて




ぼくたちは
お互いの
根源に秘めたる
この世を超越した
「不抜の愛」に
同時に
ふれることが
できる
のかもしれません
hands_convert_20181029111429.jpg
出典:hrringleader.com



今日も
ありがとうございました




人気ブログランキング
スポンサーサイト

イエスだってブッダだって、一人では何もできない

読者のえびはんさんから
こんなコメントを
いただきました



先月1週間くらい、なんだか何もかもうまくいかなくて、
何してもつまんなくて、何も食べたくなくて(食べてましたが)そんなことがあって、
どこへ向かって居るのかわからなくなったことがありましたが、
ここへたびたび来て、今はアースフルネスの視点を取り戻せつつあります。
わたしもいつか人を助けられたらいいな。
これからもたくさん悩むと思うけど、今はそう思います。





どこへ向かっているのか
わからない
そんなとき人は
こんなブログを
読む余裕なんて
なかなか
持てないと思います

娯楽や
趣味のための
ブログなら
何も考えず
ただ楽しむだけでよいのですが

ぼくのブログは
理性的に
「考える」ことを
うながされる
記事が
多いと思われるので

もし
なんにも頭に
入らないくらいに
気分が落ちているときは
みなさん
スマホは機内モードにして
体を休めてくださいね




もしくは
コメントから
その日の
愚痴を吐き出したり
悩みを打ち明けてくださっても
まったく構わないですし(^-^)

ぼくが
力になれるかどうかは
そのときどきに
よると思いますが

相手に伝わるように
アウトプットするという
行為そのものが
こころの整理に
直結します







ところで
えびはんさんから

わたしもいつか人を助けられたらいいな。

という言葉を
最後にいただきましたが

みなさんだったら
人を助ける人と
助けてもらう人

どちらの人に
なりたいと
考えますか?




好きなほうを
選べば
そのとおりに
なれるのなら
人に助けてもらって
生きるよりも
人を助けて
生きれる人になりたい


そう考える方のほうが
多いのではないでしょうか




確かに
歴史をたどっても
スポットを浴びるのは
いつだって
「助けた側」の人ですし
そっちのほうが
承認欲求や
存在意義を
満たしてくれるに
ちがいありません




ですが
実はここに
ひとつの大きな
「見落とし」
があります





なぜなら
「人を助ける」
という行為は
「助けられる人」
なくして
成立せず




すべての
「助ける」
「助けられる」は
「1」の世界ビジョン
読み解くなら
どちらの側にも
優劣がない
助ける側と
助けられる側との
「共同作業」
なのです




イエスだって
ブッダだって
ナイチンゲールだって
杉原千畝だって
例外ではありません
hqdefault_convert_20181006121154.jpg
出典:noriohayakawa.wordpress.com




困っている人
助けを求めている人が
目の前に
存在しなかったなら
上の四人は
説法をすることができず
看護をすることができず
ビザを発給することができず
自分の能力を
MAX100%
活かすことができません




覚者だろうと
そうでなかろうと
可もなく
不可もない
比較対象がない
無力な一人の人間でしか
なくなってしまう
わけです




言うまでもなく
ぼくもまた
ぼくの言葉を
必要としてくれる人が
いなかったなら
あまりにあまりに無力な
一人の人間です





「1」の世界においては
すべての優劣
すべての光と影が
フラットな関係性に
結びついてしまう

これこそが
縁起の真実なんですね






なので
「助ける側の人」になりたい
という
理想を抱きつつも
そうはなれない
他人任せで
受動的な
一人の人間もまた
「替えがきかない役割」を
まっとうしている

言うことができるのです




あえて
今日は
(誰もそんなことを
言う人がいないので)
「助けられる側」の人の
功績

記してみました




そうそう
「貸してやるのではなく使っていただく」 
信用組合理事長/山本明弘さんに見るアースフルネス

の記事でも
ご紹介した
山本明弘さんもまた
ビジネスという制限の中で
「助けられる側の人」の功績を
体感的に理解している
実践者だと思います






記事のきっかけをくださった
えびはんさん
ありがとうございました





人気ブログランキング

ブッダだって石につまずいて転ぶ

ブッダ(釈迦)だって
石につまずいて
転ぶことも
あったと思うのです
ブッダつまずき_convert_20180928102732




ブッダだって
鼻息のとおりが悪くなり
ほじっていたら
血が出てしまったことも
あったと思うのです




ブッダだって
説法の決め台詞を
かんでしまったり

「ちょっと
なに言ってんのかわかんない」

サンドウィッチマン
富澤
さんばりの修行者に
突っ込まれることも
あったと思うのです
cd92c18ab53204ad375065c0a09ddebf_400.jpg
出典:bokete.jp





ブッダだって
大勢の人が
話を聞きに集まり
しんと静まり返るなか
ブッ!と
でかいのを
かましてしまったことが
あったと思うのです





ブッダだって
つい
女性の胸元や
お尻に
目が行ってしまい
これから
何を話そうとしていたのかを
忘れてしまったことが
あったと思うのです




ブッダだって
今日はおうちで
ゴロゴロしてたいなあ
説法面倒だなあ
と思ったことが
あったと思うのです




けれども
そういうブッダは
漂白され
キレイなところだけを
抽出され
神格化されていったもの





それが仏典であり
多くの人が
イメージする
ブッダです




かっこわるい自分や
悩みもだえる自分や
情けない自分と
日々向き合わされる
現代を生きる
ぼくたちが
敷居が高く
感じてしまっても
仕方ありませんよね




自分とは
縁がない存在に
思えても
仕方ありませんよね




ダメなブッダ
等身大のブッダにも
触れてみたい




急にそんな
くだらないことを思った

けれども
大事なことに思えた

ブッダを
「2」の世界のビジョンを通して
見つめてみた
ささやかな記事でした



今日も
ありがとうございました





人気ブログランキング

ブッダとイエスが「紙」に言葉を残さなかったその理由

今月最後の日も
お越しいただき
ありがとうございます




「対機説法(たいきせっぽう)」
という言葉があります

仏教の開祖といわれている
釈迦(ブッダ)
悩みや
苦しみを抱える
目の前の相手の
心理状態
生い立ち
精神性や知性
得手不得手
価値観や人生観
などを
熟慮したうえで
ケースバイケースで
行った
「話し言葉」による
アドバイス
です




あの
イエス・キリストもまた
対機説法の
天才だったと
いわれていますが




それ以後の
人類の精神性に
もっとも影響を
及ぼしたかもしれない
この2人が
「文字」ではなく
「話し言葉」に
こだわった理由

いったい
どこにあるのでしょうか




実は
その理由は
昨日の記事
「介護」の倫理基準は、理想的な人間関係の倫理基準にもなりえる

密接にむすびつき
なおかつ
このブログ
アースフルネスライフとも
密接にむすびつきます




約一ヶ月間
ぼくがこのブログで
お伝えしてきたとおり
人は
おのおの
グーグルアースのごとく
低い位置で
地上を見ている人がいれば
高い位置で
地上を見ている人がいて
その中間から
見ている人だっています

加えて
見ている角度や
見ている場所も
さまざまで
しかもそれは
日々
変化をいとわないので
視点のバリエーションは
人の数だけある

と言っても
差しつかえなさそうです




なので
みなさんにとって
話が合わない人や
なぜだか
気まずくなる人がいる

その理由とは
見ている高さや
高低のふり幅
見ている角度や
見ている場所の
ずれの大きさにある

言うこともできそうなのです




ブッダと
イエスは
地球がまるごと
見える高さ
というよりも──

グーグルアースという
この世界
この宇宙の
プログラム(二元性の枠組み)から
「いち時的」に
突き抜けてしまった

そんな人たちだと
言うことができます

「いち時的に」
というのが
大事なポイントです
なぜなら
突き抜けたまま
その状態が「継続」されることは
「この世界に存在できないこと」
意味するからです

このことについては
またいずれ





そして彼らは
気がついたのでしょう

仮にもし
「文字」として
紙に言葉を
残したなら──

彼らの言葉が
記された
その紙の中の文字は
書き直したりしない限り
決して変化することが
ありませんが

その紙を
手に取り
文字を読み取る
あらゆる人々は
おのおの
多様な高さと
多様な角度と
多様な場所の
ビジョンを持った
まったく同じ人は
一人もいない
多様な人々です





そうです
「文字」にしてしまった
その時点で
その紙に記された言葉は
言葉を書いた
そのときの
ブッダとイエスの
視点の高さと
角度と
場所からの言葉に
永久に
固定されてしまうため

紙に書かれた
視点の高さと
角度と
場所に合致した
一部の人々にしか
その言葉は
役に立たないことになり
自分のケースに
合致しなかった
それ以外の
多くの人には
悪影響すら
及ぼす結果に
なりかねません





そのことは
富と権力の
欲望うずまく
「宗教戦争」の
陰惨な歴史をひもとけば
ぼくが
のべるまでもありません





ブッダとイエスは
紙に残すことを
避けていたにもかかわらず
彼らを神格化した
後世の人々が
「仏教」
「キリスト教」

という
集団組織を
築き上げました




ブッダとイエスが
ケースバイケースで
目の前の
個人のためだけに
説いた
個人的な「アドバイス」

「聖書」だったり
「仏典」という形で
ぜんぶ
一緒くたに
してしまった
というのが
ぼくの宗教史に対する
ひとつの推論です

(なので
あっちのページでは
こう言ってたのに
こっちのページでは
逆のことを言ってる
というような矛盾も
起こります)




本当は
彼らは
ただ
昨日の記事
「介護」の倫理基準は、理想的な人間関係の倫理基準にもなりえる

「倫理基準」のように




自らの価値観に
偏ることなく
目の前の人の
心身の状況を
可能な限り把握し
目の前の人が
自分の力で
自己決定できるよう
目の前の人の状態に
合わせた
適切な
言葉や行動を
選びぬき
目の前の人の
自己決定を
尊重しようとした──




それだけのことだったはずが
後世の人々が
話を盛ったり
権力に都合がいいように
改ざんした
その結果
過剰に肉付けされた
過剰な神格化が
今なお
大きな余波を
残しているのかもしれないと
思われてなりません




真剣に
両宗教を
真理として
向き合っている方が
もしこの記事を読んでいて
不快な思いをしてしまったら
申し訳ありません

ぼくは
両宗教を
批判したいわけではなく
存在を
否定したいわけでもありません




「宗教」もまた
「宗教」という名の
グーグルアースの中の
ひとつの視点の一部である

という
ぼく友資
いち個人からの
アースフルネス的
ひとつの視点を
語っているにすぎません



ぼくは
特定の宗教の
信者ではありませんが
ブッダとイエスをふくむ
宗教にまつわる
敬愛する人々が
たくさんいますし
宗教芸術が
大好物です

自宅には
ビッグな仏像の顔が
鎮座ましまして
帽子には
聖母マリアのコンチョが
くっついてたりします




最後に
ではどうしてぼくは
「対機説法」ではなく
あえてこうして
「文字」にすることを
選んだ
のか




ひとつの理由は
しゃべりの才がないからですね笑

もうひとつの理由は
ブッダとイエスの時代には
存在しなかった
インターネットや
グーグルアースといった
現代ならではの
新時代ツールと
このブログ
「アースフルネスライフのすすめ」の
インスピレーションが
文字での
「対機説法」の可能性

切りひらいてくれたから
です




「説法」なんて言い方だと
上から目線すぎて
自分としては
とても違和感があるのですが
より高い地点からも
地上を見れる
ビジョンを養う
という意味では
「上から目線」
という言い方も
あながち
間違いではない
のかもしれません





今月も
ありがとうございました
来月からも
よろしくお願いいたします



IMG_20180714_115307_convert_20180830220640.jpg
額の「V8」の意味は
映画「マッドマックス怒りのデスロード」を
ご参照いただけましたら





人気ブログランキング

プロフィール

 友資

このブログの筆者: 友資


初めて訪問された方は、
初投稿記事
  「アースフルネス」とは? 前編
をクリックいただけましたら幸いです。

以下の
アースフルネス「7」ビジョンについての解説は、
哲学やスピリチュアルに馴染のない方は
難しく感じるかもしれません。
わからないところがあれば、遠慮なく質問してください。

  「2」の世界(因果の世界)についての解説
  「1」の世界(縁起の世界)についての解説 前編  後編
  「0」の世界(悟りの世界)についての解説 前編  後編

いずれもこのブログの
骨格を成す記事で、
このブログだけの「公理」でもあります。

メルマガ登録ページはこちらから

ランキングに参加しております。

カテゴリ

入力した語句が含まれる記事を探せます。

直接に伝えたい用件がある方はこちらからどうぞ。

名前:
メール:
件名:
本文:

ツイッターもやってます。

QRコード

QR

アースフルネス「7」ビジョン

画像をクリックすると拡大します
ここをクリック